92. 口論
最初こそハサミを持つ手が緊張で震えていた百合華だったが、慣れてくるとスピーディーに穂積怜の髪を切っていた。すきバサミの使い方も誰にも習っていないけどなんとなくわかってきた。
黒くてうねうねした髪は、なんだか愛しかった。
ものの20分位で散髪は終わった。穂積怜に更に磨きをかけたのは、私だ。百合華の自己評価は高まった。これなら穂積怜も百合華を蔑む理由はないはずだ。どの角度から見ても穂積怜に潜むお洒落さを引き出している。
礼を言われる…
はずだったが、言われたのはこうだった。
「じゃ、シャワー浴びるから。出てって。」
————素っ気ない。
自分が頑張ったと思えば思うほど、穂積怜の対応は反比例して素っ気なくなる。初めて知った訳ではない…髪を後戻りが出来ないほど下手くそに切ってしまって罵倒されるよりだいぶマシだ…と自分を励ましながら風呂場を出た。
リビングのソファで何もせずボーッとしていたら、白いTシャツに、グレーのスウェットパンツを履いた穂積怜が髪をタオルで乾かしながら風呂場から出てきた。
「だいぶ、軽くなった。ありがとう。」
穂積怜のお礼の言葉はレアものだ。
でもだからこそ、その「ありがとう」が百合華にとって心を震わせる言葉となるのだ。
「どうですか?気に入りました?」
「まだぐしゃぐしゃだからわからないな。」
穂積怜はドライヤーをかけに、また洗面台へ戻った。
戻ってきたその髪型は、百合華がイメージしていた通りだった。もっさりしていた髪がさっぱりとしたウェービーな短髪に仕上がっている。
「意外と上手いんだな。」
「私もそう思ってたところです。」
「謙遜しろよ。」
「また、切りに来てもいいですよ?」
「いやいいよ。」
「なんで」
「倉木とはもう、契約はしない。」
「え?契約?」
「ああ。あ、ビール飲む?」
穂積怜は冷蔵庫からビールを2本出して、1本を百合華に渡した。
「ありがとうございます。契約って…?」
百合華がビールを開けながら聞くと、
「前にほら、弁当のことで失敗しただろ。」
「あれは、契約じゃなくて…私がそうしたかったから…」
「でも、どっか食べに連れてってとか言ってただろ、契約だ。利益・不利益が生じ得るのはいやなんだ。」
「そんなに深刻に考えなくても、そんなこともあったなで流したらいいんじゃないでしょうか…?人間関係ってバランス取りながら接近したり離れたりの繰り返しなんじゃないでしょうか。」
「そういうのがもう、嫌なんだよおれは。」
「人間関係にエネルギーを使うのがですか?」
「そうだよ。もういいんだ。皆に放っておいてほしい。」
「でも今日、私に髪、切らせてくれたじゃないですか。断られるかと思ったのに。」
「………。」
「駆け引きとか、契約とか、そればかりじゃないですよ。」
「弁当、うまかった…けど、ああいう結果になると『悪いことをした』って感情が出てくるだろ。そういうのがもう、嫌で仕方がないんだ。感情や友情や愛情や、『ありがとう』や『ごめんなさい』が、おれには不要の燃えないゴミなんだよ。」
穂積怜はビールをゴクゴク飲む。
「そうやって、人間に、世間に、背を向けて、自分の世界に閉じこもっている方が安心ですか。」
「そうだ。俺はだれにも心を開くつもりはない。」
「社長にも?Mr.Brownellにも?」
「ないって言ってるだろ!」
「じゃあ何の為に生きてるんですか。」
「そんな目的なんて無い。夜寝るときも、朝起きたときも、絶望しか感じない。」
「そんな……仕事だってあんなに頑張ってるじゃ無いですか。英会話だって…!」
「俺が生きる理由とそれは全く別物だ。別に今日のたれ死んでもいいと思ってる。」
「社長やマスターや、あなたを助けようとしてくれた人にも感謝の気持ちは少しも無いんですか!」
「感謝?そもそも感謝ってなんだよ。その感情が俺には無い」
「さっきありがとうって言ったじゃ無いですか。」
「髪切ったから?ことばあそびだよ。倉木。全部その場しのぎだ。俺はそんな人間なんだよ。」
「あなたがそう考えるに至る理由があることは、週末の取材で少しだけわかりました。今私には感情があって、あなたが言ったことに凄く怒ってるし、悲しいです。もう知らないって出て行きたいけど、私は調査、やめませんから。」
泣きながら百合華はビールを一口飲んだ。




