09. 全力疾走
大雨を浴びながら、百合華はバー・オリオンへ向かって走った。鞄の中身が音を立てて飛び跳ねる。黒いアスファルトに真っ暗な空。車が横を通り過ぎると、シャーッという大きな音とともに、容赦無く水たまりの波を百合華にぶつけてきた。
オリオンが見えてきた。最後の客と思しき紳士二人組が大雨の具合に笑いながら傘を開いて歩き去って行く。
すると店のドアが開き、穂積怜がスッと出てきた。
バー・オリオンの前に斜めに設置されているシャッターを下ろし始めた。
「ああーー!待ってええー!」
百合華は息切れして出ない声を振り絞って穂積怜に声をかけた。異様な事態に穂積怜も気づいたようだ。シャッターを閉める手が止まった。
ようやくオリオンにたどり着くと、シャッターの前で穂積怜が立っていた。普通はシャッターは引っ掛け棒を使って下ろすものだと思っていたが、穂積怜は身長の関係で引っ掛け棒は無用らしい。おそらく店長は引っ掛け棒が必要なのだろうが…。
しかしそんなことは今はどうでも良い。今までの人生で1番の全速力をしたのではないかと百合華は思いながら、両手を両膝に置いて少し息を整えた。
「すみません。忘れ物をしたんです、スマホなんですけど、ありますか?」
やっとの思いで声を出した。
顔は見えないが、穂積怜は無反応だ。またしても。こんな時にも。
そして信じられないことに、穂積怜は、朽ち果てそうな百合華に何の声もかけず、オリオンのドアを開け、そしてバタンと閉めた。
百合華の高いプライドはここぞとばかりに痛めつけられた。
でも待って…もし……穂積怜が、ロック画面を見てしまった後で、あの気味悪い女がずぶ濡れで全力疾走してきたと思っているとしたら……
それこそ絶望だ。
しかし、悩んでいても仕方がない。百合華はオリオンのドアを開けた。
するとそこにはまだ数名、在席していた。こちらを振り返ったその顔は皆見覚えのある顔だ。1人以外は。
まずは店長のちょび髭。そしてカウンターでロックを飲んでいる、織田社長。2人は驚いた顔で百合華の姿を見て一瞬言葉を失っていた。
やっと口を開いたのは社長が先で、「倉木さんじゃないか。どうした、忘れ物か?」と、重低音の大きな声で聞いてきた。
まだ息をきらしている百合華は縦に首を小刻みにふりつつ「はい…店長さん、私のスマホ……置いてませんでしたか?」と言った。
どうか穂積怜がロック画面を見ていませんように…見ていないならそれだけで今日の失態は自分で自分を赦します…。
心の中で祈りながら店長の声を待つと、「え?スマホ?」という素っ頓狂な声が聞こえた。
え?まだ見つかっていない?じゃあ、穂積怜にも見られていない?
少しの期待が爆発しそうに膨れ上がり、いつもの丸いテーブルの席に這うように走って行った。
————あった…!
自分が座っていた席の下に、裏返って置いてあった。
—————よかった…………
大事なスマホは壊れることもなく、そこに佇んでいた。百合華はそれを抱きしめた。そしてその場でへなへなと座り込んでしまった。
そっと穂積怜の様子を伺うと、少しもこちらを見ていない。きっとあの様子では、ロック画面を見られた確率は98%無いに違いない。
ところで穂積怜、さっきから何をしているのだろう。
バーの片隅にある2人用のテーブル席で、百合華が見たことの無い白人男性と向き合って何か話をしている。時々頷いたり、首を傾げたり、何かを聞いたり答えたりしている。
穂積怜が、アクティブに話をしている…。
あの白人男性は一体どこの誰なのだろう…。穂積怜を独占しているあの男性は…。
もしかして、親戚?
百合華は力が戻ってきたのを感じ、しおれていた気力を振り絞って立ち上がった。抱きしめていたスマホを入念に鞄に入れる。帰ったらロック画面変えよう、と思いながら…。
好奇心が百合華を動かした。男性と会話している穂積怜は一体何を話しているのだろう。英語でも、聞き取れる自信が帰国子女の百合華にはあった。
ちょび髭店長や社長の注目を浴びていることにすら気づかず、百合華には今、1つのテーブル席しか見えなかった。そろそろ…とそのテーブル席に近づいて行く。