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瞳洸(どうこう)  作者: 内山潤
第7章 日常
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89. 日常へ

 週末2日間の取材で、得たものも多かったが疲労も蓄積した。百合華は、帰宅後寝る前も、昼休みも、時間がある時は自分が書いたメモを何度も読み返した。


 自分のために時間を割いて昔のことを思い出して、取材を応援してくれる人に沢山出会った。ふっと、ハンバーグ屋の竹内夫妻は今頃何しているかな…とか、明美に会って癒されたいなあ…と、センチメンタルになってしまう。

 まだ取材は始まったばかりだから、来週末にでもまた会えてしまうかも知れないが…。


 児童養護施設【にじのゆめ】の夕涼み会が8月25日、日曜日に開催される。何か収穫があるかも知れないと思うと待ちきれなかった。それに、【にじのゆめ】で暮らす子どもたちに会ってみたいと純粋に思った。


 それにしても気がかりなのは、相沢茜の母、相沢みどりが言っていた「あんなことになってしまうとは…」という言葉だ。

 結局「あんなこと」とはどんなことなのかは教えてもらえなかった。一体この先、私は何を知ってしまうのだろう。百合華は未知の恐怖を覚えた。


「頑張ってるね、百合華!わかるよ!でも…今だから伝えとくけど、体は大事にね。」まりりんが言った。夢子や美由紀も頷いた。


 ここは織田出版の屋上庭園だ。織田社長の妻、優子が丹念に作り上げた社員の憩いのスペースだ。多くの社員がここで昼食を食べたり、休憩を取る。真夏は暑さがネックだが、社内の食堂で食べるより開放感があって、百合華を始めとする飲み仲間、夢子、美由紀、まりりんは昼食は屋上庭園を使い続けた。ついでに言うとまりりんの婚約者、正樹も毎日一緒だ。


ベンチにはパラソルが設置され、所々小さな木陰も出来ている。百合華たちはベンチに座り、主にまりりんと正樹の婚約や結婚式の準備の話をしていた。


 百合華が忙しいのを知って、頼まずとも夢子たちは百合華に余計なことは言わないように気遣ってくれた。進捗状況を聞いてきたりもしない。緊急時以外は現在、連絡を取り合っていない。

 以前は1日1回は誰かとLINEや電話をしていたのに。前は仕事帰りにバー・オリオンで飲んで帰るのがルーティーンだったのに。時の流れとともに変わってしまった。

 それでもこうして、距離を感じさせないでいてくれる仲間に感謝した。


 会社での仕事は、取材よりずっと楽だった。余程急なプロジェクトが入ってこない限り、5年間勤続したノウハウを活かせば桑山課長の濃い顔で睨みをきかされることも無い。


対する取材はゼロからのスタートが多いし、全く面識の無い人の信頼を得るのもなかなか難しい。突発的なことが起こることもあるので、臨機応変さも必要だ。取材を主に担当している全国のプロに感服した。


 隣のデスクに座る新人…いや、もうだいぶ仕事には慣れたので新人呼ばわりは辞めてあげよう。隣のデスクの渦中の人は、いちいち百合華の視界に入ってきては集中力を妨害する。


 穂積怜を見ると、週末に聞いた幼少期の怜の姿を想像してしまうのだ。薄汚れたTシャツに、ボロボロのブルージーンズ。給食は生きるためのセーフティーネットで、長子として下の子たちを優先的に守ってきた、【子ども】。


 取材から編集室に戻ってきて、最初に穂積怜の姿を見たときは、恥ずかしながらも少し目が潤んでしまった。自分でも奇異(きい)に思うが、穂積怜を見て、「よく生きてくれた。よく成長してくれた。」という賛辞を述べたくなってしまう。

 もっとも、当の本人は、百合華が目を潤ませていることにすら気づいていなさそうだが。


 自分が穂積怜を意識したり、穂積怜の挙動に動揺したりする姿は決して誰にも悟られてはいけない。取材をしていることは近しい人は皆知っていることだが、内容に関しては完全極秘個人情報だ。

 だから百合華は、穂積怜を見ても極力平常心を装った。


 ある日の終業後、桑山にバー・オリオンへ行くことを誘われた。断る理由も無いし、桑山の言葉にはいつも助けられている。調査した内容を密告するつもりは無いが、少し桑山と会話をして気分転換するのも良いだろうと思った。


 会社で夢子たちに事情を話し、別れを告げてオリオンへ向かった。

 桑山はいつもの席で待っていた。

 桑山は黒ビールを飲んでいたので、百合華もちょび髭店長、もとい、マスター・(ひがし)に黒ビールを頼んだ。

 東が以前、教えてくれた秘密もとても気になる。


 ———濡れ鼠みたいな少年を社長が担いでやってきた…。


 その意味がわかるのは、どれくらい先になるのだろう…。



「おいおい、来た途端に調査のことで心ここに在らずか?」

 桑山がフフッと笑った。


「あっ、すみません。本当に最近は……」


 マスターがビールを運んできた。

 何か意味深なウィンクをして、ビールを渡し、戻って行った。


「いや、いいんだよ。それだけ没頭できるような、そんな壮絶な世界なんだろ、お前が首突っ込んだ世界ってのは。」


「だからこそ完遂したい。そう思っています。桑山さん、以前取材は獲物に食らいついていけって言ってましたよね。今回の取材で、何度かその言葉を思い出して、勇気出して行動したこともありました。」


「貴重なアドバイスだっただろ?ええ?受け身じゃ何も入っちゃこない。いけいけゴーゴーだ。」

 桑山は煙草を吸いながらそう言った。


 ———いけいけゴーゴー…


 百合華はあっはは!と声に出して笑ってしまった。


「何がおかしい。」

 桑山が濃い眉をひそめる。


「いえ、すみません。また取材に出た時は、いけいけGOGO!を思い出します。」


 ちっ…。桑山も苦笑いしながら煙草を消した。


「お前が、暗い世界に飲み込まれないかが心配なんだ。でも、今の所大丈夫そうだな。お前見かけによらず…というか見かけ通りなのかな?メンタル、タフだもんな。」


「褒め言葉か何かわからないです…」

 百合華が笑う。


「お前さ、有給結構残ってんじゃないの?体壊すまで取材しろとは言わないけど、有給使ってもいいんだぞ。遠慮するな。」


「ありがとうございます、もしかしたらどうしても必要になる時が来るかも知れないので、慎重に考えておきます。」


 それから何気ない世間話をして、桑山とは別れた。

 桑山には妙な色気がある、と、夢子がいつも言う。

 なんとなくわかる。

 でも、百合華のタイプではない、すみません、課長。


 それでも百合華は、桑山の人となりが好きだった。

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