73. 28年前・3
———怜10歳(5年生・7月)———
最初は覚束なかったミルク作りも、だんだん慣れてきた。ももが泣いたら何かがある。ミルクをあげるか、おむつを見るか。
おむつでうんちをしている時は、正直怜は臭くて嫌だった。
蓮に変わって欲しかったのでやらせたら、ある日、蓮の両手とももの全身がうんちまみれになってしまい、結局怜がももをお風呂に【適温】で入れなければならなかったので、おむつ替えも怜の仕事だった。
弥生は突然、怜たちの元から消えた訳ではない。
出産する前から、ほとんど家には帰らなかった。どこで何をしているのか、怜たちは知らなかった。
探そうにも、下手して弥生に見つかったらお仕置きが待っている。この家では下手なことは出来なかった。
ももが生まれてから、ももを家へ置いて小学校に登校しなければならなかったのが、怜と蓮の苦悩だった。
おれたちがいない時にもし何かあったら…と思うと気が気ではなかった。
でも、怜たちが住んでいたコーポ室井は空き部屋が多く、住人が居るにしても怖い人、変な人ばかりで、とても、ももを預けることはできなかった。
他に頼れる人は思いつかなかった。学校の担任の先生は、物凄く怜のことを心配してくれていた。蓮の担任も結託して、穂積家の危機を感じとってくれていた。それでも、怜も蓮も、家でのことは一切口にしなかった。
以前、怜が余計なことを先生に言って、先生が家を訪ねてきたことがあった。
その時、たまたま弥生が在宅で、どこかの外国人の男とゴミ溜めの中のソファでいちゃいちゃしていた。先生が心配している旨を伝えると、弥生は脅すように先生を追っ払った。
それから酷い折檻を受けた。「学校で何を言った!」から始まり、「余計なことを他人に話すな!」で終わった。始まりと終わりの間は、暴行だった。
それ以来、穂積兄弟は、余計なことは他人に言わない。いつどこで弥生に会うか、または弥生が見張っているか、わからないから行動は徹底した。
そういう訳で、学校の先生が心配しても、口をつぐんだ。家庭訪問も色んな嘘をついて断った。一番有効だったのは徹底無視だった。
でも1度、怜と蓮と先生が突然アポイントメント無しの訪問をしてきた。
その時は弥生はおらず、怜と蓮とももだけだったが、ももがひどくグズっていた。これで赤ちゃんがいることがバレてしまった。怜と蓮は、何よりその事実を弥生に知ることが怖かった。
訪ねてきた先生たちのことは無視して、ももが泣き止むように、弥生が置いて行った道具を咥えさせた。これはおしゃぶり、という名前らしい。ももは泣き止んだが先生たちはまだ外に居る。
怜と蓮はだんまりを決め込んだ。すると何十分も経った頃、先生たちは諦めて帰って行った。
それから暫くして、【ふくしのひと】が二人組で来た。どこから来たのかは知らない。
おばさんと、お兄さんだった。
きっと学校の先生より偉い人なんだろう。
偉そうに、ドアの前でベラベラ喋っている。
———うるさい。ももが起きるじゃないか。
さっきまで全然寝なくて、怜は2時間も抱っこし続けたのだ。
背中を優しくトントンしたり、歌を歌ってみたりしても泣いている。
おしゃぶりをあげても激しく泣いて咥えようとしない。
挙げ句の果てには泣きすぎて、ミルクを大量に吐いた。
怜の服は消化しかけたミルクまみれだった。
もしかして、ももは病気なのかもしれない、ととても心配した。
しばらく優しく揺ら揺らしていたら、ももは眠ってくれた。
一安心したものの、怜は疲れていた。
朝学校へ行く前も、昼給食を食べてからも、夜中も、ももの世話をしなければならない。
「これからはお前が、ももの世話をするんだよっ。」
弥生の声が頭の中で響く。命令口調だ、反抗なんてできない。
それでも——怜は思った。
ももが可愛い。だんだん可愛くなってくる。
生まれた時は、ピンクの異星人みたいな格好していたのに、どんどん人間らしくなってきた。
ももが居て、手間がかかるからこそ孤独を感じないのかも知れない。
もちろん、蓮にしたっていなかったら生きていけなかったかも知れない心強いパートナーだ。
そんなことを考えながら、ももが寝ている横に寝そべって、ももの呼吸に合わせてお腹をとんとんしていたら、ドアの向こうでまだ声が聞こえた。
【ふくしのひと】がまだいるのだ。
「赤ちゃんがいるのよねえ?ご両親はどこなの?戸籍ってわかる?戸籍がないと病院にも行けないのよ?」
おばさんはまだ話している。
病院に行けなくなる……それは、困る。
でも今ドアを開けるのは、弥生の存在が怖くて…とてもできない。
それから4、5回【ふくしのひと】は来たが、毎回何の反応もせず放っておいたらそのうち来なくなった。




