72. 28年前・2
———怜9歳(5年生・6月)———
弥生が大都会に失踪する前に、弥生は突然家で赤ちゃんを産んだ。女の赤ちゃんだった。怜は出産の手伝いをさせられた。たらいに温かい【適温】のお湯を入れて、バスタオル持って、【その時】を待つんだよ。あとハサミを持ってきておいて。あんたの責任は重いんだよ。失敗したらただじゃおかないからね。
弥生の「ただじゃおかない」は笑えないので、怜は必死だった。でも適温ってどれくらいの温度?失敗したらただじゃおかない…聞きたい、けど、母さんは苦しそうにもがいている。今聞いたらいけない。
きっと生まれてくる赤ちゃんはお風呂に入りたいんだ。だから、冷たくてもダメだし、熱くてもダメだ。それが【適温】だ…きっと。
怜は大き目のプラスチックのたらいに、お湯を入れた。熱過ぎる…水を足す…冷た過ぎる…お湯を出す…の繰り返しだった。
陣痛に苦しむ弥生はその痛みの苛立ち全てを怜に当てつけた。
「この役立たずが、さっきから何バカやってんだよ、赤ちゃんと母さんいっぺんにころすつもりか、お前は今ラクしてんだから、さっさと準備くらいしろよバカ」
周囲にあるゴミや何やを全て怜に投げつけてくる。
ごめんなさい…怜はまた、【適温】のお風呂づくりを始めた。よくわからない。もう、運試しだ。でも失敗したらやられる。でもわからないんだから仕方ない。でもおれのせいで赤ちゃんが死んじゃったらどうしよう…怖くて怜は震えていた。失禁しそうだった。
時間がどんどん経つ。せっかくの【適温】がだんだん下がってくる。またお湯を出す。水を出す。
すると弥生の、わあーーっと言う叫び声とともに赤ちゃんがうまれた。
弥生はその赤ちゃんを両手で抱き上げ、怜に言った。
「早くこのねじれた紐を切れ!早く!早く!」
でも、工作用の小さなハサミじゃなかなか切れない。
おまけにそのねじれた紐は、ぬるぬるしている。
「さっさとしろ、この役立たずが。」
赤ちゃんを抱きかかえたまま、怜を罵倒する。
「蓮!れん!れん!れん!!も、ももももっと大きなハサミを持ってきて!」
距離をとって心配そうに眺めていた蓮は、兄に言われてすぐに動き出した。下手したら自分も【ただじゃおかない】に巻き込まれかねない。
5歳の蓮は、大人用のハサミを見つけて持ってきた。
怜はそれを使って、何度も切ろうとするが、ハサミが滑る。
「れん!ヒモを、縦にピンと張って持ってっ!」
怜が言う通りに蓮は紐を引っ張るように縦に伸ばした。
その状態で、何回も何回も、少しずつ切れ目を入れていくうちにやっと紐は切れた。突然赤ちゃんが泣き出した。何かまずいことをしてしまったのだろうか。
怜は腰が抜けそうになったが、次の瞬間弥生が
「さっさとたらいに入れろよバカ、ちゃんと適温だろうな」
弥生が片手で新生児を抱き、もう一方の手で湯の加減を測る。
「ぬっる。バカかてめえは。もういい。この子をたらいに入れて洗って。」
突然弥生が赤ちゃんを怜に渡した。赤ちゃんは当然首が座っていないので頭がグラグラしている。
この異生物をどう扱っていいのかわからない…怜は泣きそうになったが、泣いたら罰が待っている。
たらいで洗ってって言ってたから、とにかく洗えばいいんだ。それでバスタオルで拭くんだ。きっとそれでおれの役割は終わりなんだ。
そう信じて、怜はあかちゃんをたらいに入れた。ぐらぐらしているから、そっとゆっくり。両手を脇の下に入れているから、どう洗えばいいのかわからない。
そっと弥生をみると、鬼のように睨んでいる。
すると蓮が近づいてきて、赤ちゃんにジャバジャバとお湯をかけ始めた。
これじゃ母さんに怒鳴られる、と身構えた瞬間、
「そうだよー、そうやってどんどん、その白いのとか赤いのとか全部きれいにして。ささとしろよっ」
弥生は結局怒鳴った。
蓮が一生懸命ぬるぬるの何かを洗い終えたら、「さっさとバスタオルにくるめ」と言われた。
怜は赤ちゃんをそっとたらいから出して、広げてあるバスタオルの真ん中に赤ちゃんを置き、体をさっと拭いたあとタオルで包んだ。
「できました…」
怜はバスタオルにくるんだ赤ちゃんを自然に横向きに抱いていた。
赤ちゃんはまだ、変な声で泣いている。
紐を切った時どこか痛めたんだろうか。
見ると、蓮も目に涙をため、泣くまいと我慢していた。
自分が紐を引っ張ったことに責任を感じたのかも知れない。
「渡せ。赤ちゃんをこっちに。」
弥生は股を開いたまま、赤ちゃんを抱いた。
「ももちゃん〜、もーもちゃん…」と語りかけている。
すると突然また悶絶し始めた。
何事かわからなかった。もう頭は真っ白になるだけだった。
弥生は歯を食いしばってグウウウウウウ…と唸っている。
そしてその後、急に楽になった様子だった。
たらいの用意をもう一度しろと言われなくてよかった。
それから3日後、怜は10歳になった。
プレゼントなど当然ない。かわりにこう言われた。
「これからはあんたが、ももの世話をするんだよ。」
ミルクの作りかたやオムツの替え方の猛特訓が鬼コーチにより始まった。
失敗したら後頭部を思い切り平手で叩かれた。
そしてそれから1週間後、行き先は告げず、弥生は出て行った。
1つの特大コンビニ弁当と、1万三千五百円を置いて、
「次来るまで、無駄遣いすんなよ」と言い残して。
残したといえば、ももが泣いた時に使える道具も残して行った。
ももが泣いたら口に突っ込むと、ももはそれをチューチュー吸う。
これには怜も蓮も、結構助けられた。




