46. 困った上司
近頃はあくせくしていて気がつかなかったが、バー・オリオンの木のドアには1枚の張り紙があった。【誠に申し訳ありませんが本日の営業は貸切とさせていただきます】という報せであった。
夢子や美由紀たちとオリオンに入ると、知った顔ぶればかりが既に揃っていた。百合華たち女子会メンバーがいつも座っていた席も、すでに他の社員が利用していた。
社長は時折、気まぐれに飲み会を発案する。
夫人の誕生日や、入社式後、役員の退職時など、特別な時も勿論、貸切パーティーが開催されるが、それ以外でもこうしてコミュニケーションや情報交換、親睦などのために貸切にすることがある。
大体の参加者が到着した頃、【ぱんどら】編集部長の本山浩二が、グラスをマドラーでカンカンカンと鳴らして皆の注目を集めた。
「はい皆さんお疲れ様です、ただいまより社長から一言頂戴したいと思います、ご静聴のほどよろしくお願いします」
皆の視線が社長・織田恭太郎に注いだ。
自然と席についていた社員も起立して姿勢を整えた。
「はい、僕の話なんか別にどうでもいいんだけどね。皆さん、いつも頑張ってくれてどうもありがとう。おかげさまで【ぱんどら】を始め、発行部数第一位の雑誌や本が続々と増えている。皆のおかげだ。ありがとう。これからも織田出版社を宜しく頼むよ。それじゃ乾杯しようか。ー乾杯ー」
ー乾杯!ー
バー店内に響く乾杯の声は、きっと皆を高揚させたことだろう。
百合華もその1人だった。
気がかりなことや、緊張の連続ばかりで頭いっぱいの今日この頃、こうして頭を空っぽにして楽しく過ごすのも大事な栄養補給だ。
ビールを飲みながら百合華が言った。
「あれ?まりりんと正樹君は?」
「少し遅れるってLINEきてた。なんかあの2人、今日険悪モードだったから、喧嘩でもしてるんじゃないの?」
「あの2人が喧嘩ねえー!順調ってこと、だよね?」
百合華が尋ねると、夢子は「まあね」とだけ言った。
そのうち、まりりんと正樹が到着した。どうやら問題は解決したようだ、2人ともいつもの自然な笑顔で、人混みの中百合華たちに合流しようとしていた。
「そういえば穂積怜は来てるのかな?」
「来てるはずだよ。」百合華は言って、店内を見渡した。
すると、顔1つ分背の高い細い男が1人、新しいビール片手にバーテンダーと会話をしていた。
「穂積さあーーーーーーーん!!」
まさかの夢子が皆が振り返る音量で穂積怜を呼んだ。
本人も気づいたらしい。
夢子が手招きするので、彼は近づいてきた。百合華の心臓は徐々に高鳴っていった。これは自然現象だ…どきどきするということはやはり特別な感情があるということなんだ…などと自分を分析していると目の前に穂積怜が来た。
「あの新しいバーテン、前にも長いことバーテンやってたらしくて、テクニックが豊富なんだ。」
穂積怜が百合華を見ながら言った。
「へ、へええー。」
我ながら素っ頓狂な返事をする、と百合華は思った。動揺を隠したくて、あえて夢子たちの方を見ると、なぜか皆して微笑んでいる。やめてほしい…と百合華は思った。
「あ!そうそう、ここのちょび髭マスターの名前、わかったよ!!」
百合華が一大スクープのように自慢げに言った。
「うっそ!別に知りたくはないけど教えて!」
夢子は酷いことを言う。
「ひがしさん。」
「へえ〜…知れて良かった。ねえ?皆んな」
夢子がビールをちびちび飲みながら視線を一周させる。
それを受けて、皆が小刻みにうんうんと頷いた。
「なんだ、東さんの名前すら知らなかったのか?付き合い長いって聞いてたのに。向こうはあんたらの名前、全部覚えてるってのに、酷いな。」
穂積怜がため息をつきながら言った。
皆がふふふ、と笑った。
「バーテンの時より、愛想よくなったじゃない?」
夢子が穂積怜に言う。
「そんなつもりは無いけど。」
穂積怜は淡々としている。
「えー!教えてくださいよ、穂積さんがバーテンしてた時ってどんな感じだったんすか?」
正樹がノリノリで体を前のめりにさせながら言った。
「とにかく無愛想でね、注文も聞いてくれないの。どうぞ、とか、ありがとうございました、とか、そういうのも一切無し。逆に凄かったわ。」
百合華が言うと、
「そりゃどうも。」
穂積怜はどうでもよさそうに煙草に火を付けた。
そこに、4階のリーダー、本山浩二がやってきた。
「ここにいたんですかー、社内自慢の天然美男美女さん。久しぶりにゆっくり話せそうで嬉しいなあ〜。皆どうしてた?うん?ねえ、倉木さん。あ、百合華ちゃんだっけ?百合華ちゃんは彼氏いるの?うん?」
突然やってきて一方的に喋る。酔いが回ってくると話がくどくなり、最終的にはセクハラのオンパレードになるので、誰もが良い気がしなかった。
「彼氏はいませんよ。でも本山さんとは付き合わないって前に言いましたよ?」
百合華が言った。
「ひっどーい、百合華ちゃんのためなら何でも買ってあげるのに。何が欲しい?ダイヤのネックレス?ヴィトンのバッグ?セクシーな下着?」
かなり早いペースで、嫌な方向へ向かいだしたことに皆苛立ちを覚えた。
「百合華ちゃんって本当にモデルのミキちゃんだっけ?あの子に似てるよねえ〜あの子日焼け止めのCM出てるじゃん。その度にあー、百合華ちゃんだーって思ってソワソワしちゃうんだよね。」
「本山さん、4階のメンバーが話したそうにしてますよ?」
夢子が能面のような顔で言った。
「あー、いいのいいの。4階メンツとはいつでも会えるから。でも3階とは中々会えないじゃない?君たち屋上の緑地?あそこ使ってるの?なら僕も明日から行こうかな〜、ねえ百合華ちゃんって手作り弁当だったよね。僕の分、作ってくれなーい?」
だいぶ酔っているのか、話が止まらない。しかもターゲットは百合華だ。
店を出て行きたい気分に駆られた。すると本山はぐいぐいと皆の合間をかいくぐって、百合華の真隣にきた。手にはバーボンを持っている。あと、葉巻を。似合わない…百合華は思った。
本山が、その左手を百合華の右肩の上に乗せ、そーっと撫でまわした。
その瞬間、穂積怜が本山の手首を捻るように掴んだ。
「いててててて!離せ、離せって。わかったから。」
穂積怜が離すと、本山は手首を振りながら、
「目上の者に対して、やって良いことかな?穂積君。新人だけど、年齢はそこそこいってるんでしょ?それくらいわかるよね?僕の怒りがおさまらなかったらどうする?」
「どうにでもしろよ。」
穂積怜は敬語を知らない。
「じゃ、社長と話す機会に、言っちゃおうっかな。無礼な部下がいて、暴力を受けたって。」
「無礼なのはあんたで、セクハラは暴力だ。」
ケッ!と言い残して本山はその場を後にした。
「社長に言われてしまったら、どうするんですか?大丈夫ですか?」
百合華が言った。
「ああ、大丈夫だ。」
【ただならぬ仲】が、そこにはあるからだろう。
「穂積さん」
「ん?」
「ありがとうございました。」




