45. 何気ない日常
バー・オリオンのちょび髭店長こと、東との約束を漕ぎつけると、百合華は急いで編集室へ戻った。昼休み終了、ギリギリセーフだ。
百合華たちが今取り組んでいるのは、編集室4階が担当している雑誌【ぱんどら】の英語版を編集することだ。
それぞれが与えられた職務を全うしている。
ふと、右隣で書類を見つめる穂積怜を見た。
最近の百合華の行動を把握しているのだろうか。しかし彼からは何も聞かれない。
今日は白地にグレーのストライプのワイシャツと、黒ズボンだった。足元をみると黒い革靴を履いている。身長が高いだけあって、足もだいぶ大きそうだ。
穂積怜は左手で頬杖をつきながら、その指の間にペンを挟んで書類をぺらぺら捲っている。
こうして見ると、何か問題さえなければ、愛想無しのバーテンダーよりも今の仕事の方が彼に合っているのでは無いかと思えてくる。
髪を切れば良いのに、バーテンダー時代から切っていない様子だ。ウェービーな髪でどんどん目が隠れていく。とても素敵な色の瞳なのに勿体無い。
「———んっだよ。」
最初百合華は聞き取れなかったが、「何だよ」と言ったらしい。
「何がでしょう?」
「さっきからジロジロ見てるだろうが。」
「あ、気づいてましたか」百合華はえへへ、と笑ってごまかした。
「穂積さん、髪切らないんですか?」
「それは質問だな。あんたはもう質問権は無いはずだ。」
「ええー…これも範疇に入るの〜」
今晩、東との会話でも、くだらない質問はしないよう慎重に言葉を選ぼう、と改めて思った。
「ああ、今日、4階と3階のスタッフで、行ける人だけオリオンで飲もうって話があるんだけど、あんたも行く?」
「あ、はい。今日はどの道オリオンに用事があったので、丁度良いです。」
「もしかして東さんに聞く日なのか?」
「よくわかりましたね!」
百合華声が存外に大きくなったので、編集室が少し静かになった。
「おい、そこ。そこの2人。仕事中だろ、私語禁止だ。」
織田出版が出している雑誌に目を通していた桑山から注意を受けた。
仕事が定時で終わり、桑山から社員に、オリオンに集まれる人は集まるよう召集がかかった。
「別に会議や説教じゃ無い。楽しく飲もうという社長のご厚意だ。」
桑山はそう言って部屋を出た。勿論彼も参加するのだろう。
百合華も帰る準備をしていたら穂積怜から話しかけてきた。
「切ろうとは思ってるんだ、けど持ち帰りの仕事とかあって、中々時間が取れないんだよ。」
「え?あ、髪ですか。土日なら美容室やってますよ」
「美容室?俺はいつも自分で切ってる。」
「ええええ〜」
夢子たちが何?何?と聞き耳を立てている。
「それは…器用ですね。でも土日なら自分でも切れませんか?」
「土日は思い切り休みたいんだよ。こっちの仕事について、まだ体が慣れない。前は仕事前の昼間は寝てたから。」
「もうだいぶ経つじゃないですか。穂積さんそれ、年ですよ。」
「うるせえ。」
穂積怜が長くなった髪をぐしゃぐしゃっと乱すと、色素の薄い瞳が髪の間から覗いた。
「今度、切ってあげましょうか?」
「うるせえ。」
穂積怜は革製のくたびれたショルダーバッグに仕事用具をしまい、百合華に背を向けて部屋を出て行った。
夢子と美由紀が近づいてきて、
「何、もうそんなに接近しちゃってるの?普通に穂積怜としゃべってるじゃない!まさか、付き合ってるの!?」と夢子が言った。
百合華は笑いながら、
「まさか!今はただ、髪切ったらどうですかって話してただーけ。」
「でも、喋り方とか表情とか、随分変わったね、穂積怜。バーテンの時の動く彫刻みたいなのとは大違い。」
動く彫刻というセリフに、百合華と夢子は笑った。
「それに、あんな激しい罵倒されたのに普通に接するあんたも凄いわ。」
夢子が言った。
「だからこそ、私も変わってみせるんだ。見守っててよ〜。あ、そうそう、今日の飲み、行くよね?」
夢子と美由紀を見て言った。
「勿論。いつものメンバー参加だよ。」
「良かった〜、久しぶりに皆の近況知りたいよー」
「こっちの方がよっぽど、あんたの近況知りたいよ!ねえ、美由紀?」
美由紀は頷く。
「そうだよねー。でもこれは守秘義務がありますから。他にも楽しいネタ持ってるからさ、穂積怜の話は無しで。お願いっ!」
「りょーかい。」
夢子は美由紀とともに、呆れ顔で笑った。




