35. カード1
翌日。
夢子との通勤途中で、メモ帳を買ったので本格的に取材をするという意気込みを語ったら、「あんた、あんなことされてまだ穂積怜が好きなの?」と聞かれた。
「好きとかそういう感情とは違うかな。この世の銀河やブラックホールはどういう仕組みなのかとか、そういう感覚?好奇心?昨日考えてたんだけど、穂積怜が結婚してたらどうする?」
「地球が爆発する。」
職場に着くと、穂積怜は既に何か仕事をしていた。桑山は今日も濃い顔で渋面をつくり、書類とにらめっこをしている。この穂積怜の取材のこと、桑山にも一言言っておこうかな。情報を得るのは無しで。仕事に支障があるような取材をするつもりはないが、桑山も一度バー・オリオンで穂積怜の話を聞いてくれたし、弁当事件の時は放心状態だった百合華に優しく接してくれた。機会があったら話をしよう。
穂積怜に例の質問をするのは昼休みの予定だ。
それまでは百合華も自分の仕事に没頭した。
電話の外線が鳴ったのでワンコールで百合華が取った。すると英語で凄い剣幕で怒れる、60〜70歳くらいの男性からだった。
なんでも、数ヶ月前に百合華が居る編集部で発行した外国向けの雑誌の最後にクロスワードパズルが付いていて、先着50名様にプロカメラマンが命がけで撮影した地元の幻想的な秘境のポストカード5枚組がプレゼントされるという企画があったので、その方はどうしてもそのポストカードが欲しくて、該当雑誌を10冊も買ってクロスワードも全て埋めて応募したが、落選したことに憤慨していらっしゃる様子だった。
貴重なご意見ありがとうございます。ポストカードの件ですが、プレゼントはフェアにランダムで選ばれたものです。落選されたのでしたら申し訳ございません。数ヶ月後に似た企画を考えているのでまた応募していただけると大変光栄なことです。
というような事を英語で話しかけるのだが、言葉尻を取っては憤怒して、同じ事を何度も繰り返す。キリが無いので電話を切ってやりたかったが、お客様相手に、しかも10冊も買っていただいたお客様に失礼な態度は取れない。百合華は同じ質問に対し、優しく丁寧に同じ答えを繰り返していた。時計を見るともう10分以上、この禅問答を繰り返している。
すると突然、右隣に座る穂積例が受話器を奪った。
そして
“Hey, mister. You heard what my co-worker said repeatedly. If you can’t accept what she said, and if you don’t like our magazines, you don’t have to buy them. This is the end of our conversation. Thank you, bye.”
(ねえ、同僚が何度も繰り返し言ってる事聞いたでしょ。彼女が言ったことが受け入れられないなら、そして、うちの雑誌が嫌いなら、買わなくていいから。これで会話は終わり。ありがとうございました。バイバイ)
今時は電話対応はサービスの質の向上のために録音されている企業が多いが、幸いうちの会社はまだそこまでハイテクでは無い。だからと言って穂積例の電話対応は…
「おい穂積君、来い。」
やはり濃い顔課長こと桑山が即座に声をあげた。
「お前が逆に客だったとしよう。で、クレーム入れてお前がさっき言ったような対応されたら、嬉しいか?」
「嬉しくはありませんが、何とも感じないでしょうね。」
「そうか。さっきのお客さんもそうだといいがな。そうじゃなきゃ、俺は今日社長に叱責される。だいたいのクレーマーさんはなあ、納得いかねえと責任者に直接電話すんだよ。社長はお客様第一なのは知ってるだろう?俺が社長に怒鳴られてみろ。お前を呪うからな…。」
巻き舌で冷静に話す課長が怖かった。
穂積怜は何とも感じないのか…それも少しひっかかった。ロルバーンのメモ帳に書き足しておこうか。でも何て書き足そう…
そういえば…もしかして百合華は、困っていたクレーム対処を穂積怜に助けてもらったのだろうか?
それは勘違いか?
酷い対応をされても何も感じない。人が丁寧に時間をかけて謝罪をしているのを横から取り上げて淡々と説明して一方的に電話を切る。
もしかしてこの人は、心のシャッターをガラガラと閉じているのだろうか。全世界に。
だから何も感じない。
今はただの推測だが…。
昼休みが来て、晴天の屋上庭園へ弁当を持っていった。夢子たちには、今日は穂積怜と話があると言ってあったので、百合華はいつも穂積怜と話をする屋上の奥で待機していた。
すると煙草を吸いに穂積怜がやってきた。動くのが億劫だったので大きな声で「穂積さん!」と叫んだ。穂積怜は火のついていない煙草をくわえながら、面倒臭そうに近づいてくる。
弁当を見るとお互い少し気まずくなる。だが仕方がない。今日は穂積怜を知るヒントその1を聞くために会社に来た。結局あの質問以外思いつかなかったので、単刀直入に聞いた。
「穂積さんに質問第1号です。穂積は今パートナーはいますか?恋人とか、自分の家庭とか」
「はあ?いたらこんな、俺のプライバシーに不法侵入させる事を許可すると思ってんの?」
「いないって事でいいですか?」
「いない。」
「わかりました、質問は以上です。」
穂積怜は一度空を見上げて、大きく息を吸って、吐いた。そして言った。
「そんな質問でカード一枚使っちゃったの?はあ…何が取材には慣れてますから!だよ。こりゃ無理だな。」
踵を返して喫煙所へ消えて行った。
意図的な質問なんだから、そんな言い方しなくても良くない?と思いつつ、穂積怜がシングルだと知ってホッとした百合華がいた。




