32. 謝罪
穂積怜に対する憎しみの気持ちは全く消えないが、そこで暗澹たる思いに飲み込まれていたら穂積怜に言われた通り自分が愛しくてしかたがないナルシストのままで終わってしまう。
しかし、人は、そう簡単には変われない。何年も、何十年も培ってきた根本的な思考や行動様式は定着してしまっているものだ。
百合華のように自意識過剰な人間が、突然謙虚な人間に変身するのは至難の業である。自分のプライドを少し突かれるだけでも苛立ちを覚える百合華が、プライドを粉砕させるような言葉の数々を浴びせられたのだから、気持ちの切り替えに時間がかかったのは無理もない。
夢子の家での、自分の洗練された姿を穂積怜に見せつけてみせるという誓いは、早々に着手されることは無かった。憎しみと期待との間で百合華はアプローチの仕方を構想しては悶絶していた。
自分の目的ははっきりしていても、傷ついた心は中々癒えることが無い。ただ、誰かに救いを求めるのはやめようと百合華は思っていた。自分で目標を達成してみせる。それが最終的には本物の成功になるはずだから。
傷心事件があってから数ヶ月が経っていた。
仕事は特別に忙しいことも無く、日々単調に作業をこなすだけであった。だからこそ、雑念が次から次へと湧いてくる。
弁当事件後暫くは同情の目で見られていたのは知っていたが、最近はふっきれたと思われたのか、誰も同情はしない。それはそれで心地よかった。
現在1番早く進めなければならないのは、いかに穂積怜に接触するか、だった。プライドが邪魔をして、中々声をかけることが出来ないでいる。
そしてある日1つの閃光が走った。
穂積怜は、「人の気持ちなんか全くわからないクズ」と百合華を罵った。穂積怜を傷つけてきたのかも知れない…と今まで漠然と思い続けてきたことに、百合華は改めて向き合った。
傷つけてしまっていたのなら、こちらから謝れば良い。
自分も、暴言を吐かれて傷が癒えなくても、弁当を粗末に扱われたとしても、彼を傷つけてしまっていたのなら、それは別件で謝るべきなのだ。
自分が謝罪が欲しい、という気持ちは抑えて、まずは自分から謝ってみよう。
早速その日の昼休み、穂積怜が屋上庭園の喫煙所に正樹を連れてやってきた際、百合華は穂積怜に近づいて行った。勿論夢子たちは何も言わない。皆、事の成り行きを見守ってくれるという話で通っている。
穂積怜が煙草に火をつける前に声をかけた。
「穂積怜さん、ちょっと話があります。」
「……何?」
「プライベートで。ここから離れた場所で聞いてくれませんか。」
百合華は緊張で自分の脈拍が異常に早くなっているのを感じた。
穂積怜はため息をつき、「どこ」と言った。
百合華は、以前一緒に弁当を食べた、喫煙所とは反対側の静かなスペースを指差して、先に目標地点へ向けて歩みだした。
それに穂積怜も付いてきているようだ。
その場所についてからも穂積怜は苛立つように「何。」と聞いてきた。この人はもう、私と話もしたくないのかも知れない、と肌で悟った。そこで心が折れていたら目標は果たせない。早い脈拍とともに、額に汗の粒が浮き出してきているのが分かる。
「穂積さん、あなたのこと、全くわからなくて傷つけてしまっていたとしたら、謝りたくて今日声をかけました。」
「……で?」
「傷つけてしまっていたとしたら、取り返しはつきません。でも、気持ちだけは伝えさせてください。本当にごめんなさい。」
百合華は頭を下げた。
「でもわからないんだろ?何のことか。」
「正直言って、わかりません。でも今日は傷つけてしまったことを…」
「何が悪かったのかわからないのに謝られてもね。」
穂積怜は喫煙所ではないのに煙草に火を点けた。それに文句を言う勇気は百合華には無かった。
「クズと言われて、自分がクズなんだって、凹んだけど初めて知りました。そこまで言わせてしまうことを私はしてしまったんだって。だから、知りたいんです。穂積さんさえ許可してくれたら、何が穂積さんをそこまで傷つけたのかを知りたいんです。」
暫しの沈黙の後、穂積怜は言った。
「知ってどうする。人には土足で踏み込まれたく無い事情ってものがあるだろ。俺にだってある。」
「ですよね…でも、何も知らずに謝ったからこれで良し、とはしたく無いと思ってます。」
穂積怜はだんまりを決め込んだ。
「私にも黒歴史って言うか…本当にくだらないけど人に言ったことが無い秘密が色々あります。」
穂積怜は少しだけ興味を持ったようだ。
「小学生の頃、具体的には4年生の頃、私はいじめられていました。いつもちやほやされている自分を演出していますけど、本当は、バイキン扱いされたこともあるんです。人って、自分と異質な人間に反応するじゃないですか、良くも悪くも。4年生の時は最悪で、誰からも無視されて、ありとあらゆる嫌がらせを受けて、学校へ行けなくなりました。」
百合華は続けた。
「それでも親は学校へ行け、教師も学校へ来い、の繰り返しで、教師からは「君はプライドが高いから思い込みも激しいんだよ。いじめは気のせいだ。」と直接言われました。もうこの世からいなくなりたいって心から思って、救急箱の中にあった薬の瓶の錠剤を全部飲んだんです。でもそれ、整腸剤でした。」
穂積怜が、ふっと笑った。
「中学に入ったら、私のファンクラブみたいなのが勝手にできてしまって、それを知った不良グループの先輩に「その顔、ボコボコにして変えてやるよ」と言われて、最初は女の先輩に竹刀で顔を叩かれました。こう、野球部がバッティング練習するような感じで。私が「やめてください」と懇願すると先輩たちはゲラゲラ笑うんです。そして髪を掴まれてビンタされて…、心も体も傷ついて引きこもってしまい、しばらく学校へ行けませんでした」




