30. 決心
穂積怜に暴言を吐かれたその日、百合華は皆の同情の眼差しに耐えながら、そして視界に入ってくる穂積怜の動きに怯えながら、何とか仕事を終えた。
何も考えられない……頭が真っ白だ。
そんな百合華を気遣うように、夢子が言った。
「今日はオリオンはパスしよっか、百合華、家に帰ろう?」
帰り道、夢子は何も話さなかった。もちろん、百合華も。
スマホのLINE通知が先程から何度も震えているが、それを確認する気力もない。美由紀たちが心配してくれているのかもしれない。
電車に揺られ、自宅付近に着いた時、「ちょっとお茶でも飲んでいかない?」と夢子に誘われた。
1人で家に帰ったら、今日のことを思い出して発狂してしまいそうだったので、夢子に甘えることにした。
夢子の部屋には何度か入れさせてもらったことがある。
黒猫を1匹飼っていて、「マイルズ」という名前がつけられていた。人懐こい猫だ。
リビングルームの座布団に座った途端、マイルズは「ミャア」と挨拶をして、百合華に体を擦り付けてきた。そして百合華の膝の上に乗った。
「相変わらず、マイルズは百合華が大好きだねえ〜」
キッチンで紅茶を淹れていた夢子が嬉しそうに言う。
百合華はマイルズの暖かさに癒された。心にぽっかり穴があくという経験を人生で初めて味わったばかりで、まだ頭が、気持ちが、麻痺している様な感覚だけど、マイルズの暖かさは少しその麻痺した感覚を和らげてくれている。
いいなあ、私も猫飼ってみようかな。百合華は思ったが、猫にもそれぞれ個性があるだろう。穂積怜みたいな猫だったら……
百合華の肩が小刻みに震えているのを見た夢子は急いで紅茶を運んだ。
「百合華、紅茶だよ。ダージリン。好きだったよね?冷める前に一緒に飲もう?」
百合華の顔はすでに涙でいっぱいであった。自分の背中に振り落ちる涙の粒に、いちいちびっくりするマイルズであった。
百合華は紅茶を飲んだ。温かい。マイルズも、紅茶も、夢子も温かい。冷たいのは穂積怜だけだ。
彼に言われた言葉が繰り返しエコーの様に頭の中を巡る。
思い出したくもない罵詈雑言だった。また涙が溢れ出た。
「百合華、もう穂積怜のことは職場の同僚として割り切ったら?」
そうしたいのは山々だけど、今は思考も想像力も夢子の言葉に追いついてこない。
「いくら何でもあれは酷いよ。あの人、何か違う。それに百合華が合わせる必要無いって…。」
そういえば以前、桑山も似た様なことを言っていた。やつはどす黒い何かを抱えていると言っていた。重いもの、尋常じゃないものを背負った人間だと表現していた気がする。
そうじゃなきゃあんな言い方できないよね…。百合華が持っていた自信とプライドをズタズタに切り裂くような言い方。頑張って作った弁当の残骸。ごめんも何も、一言も残さずにどこかへ消えた穂積怜…。
「何が違う…んだろう。」
「うん?」
「穂積怜は、何が違うんだろう。何を抱えているんだろう。わからない。わからないよ、夢子。どうしてあんな仕打ちを受けなきゃいけなかったの?私、わからないことだらけだよ、夢子…。」
「そうだね、私もわからない。でも穂積怜の世界に、百合華が引きずり込まれる必要は無いよ……」
夢子も温かい紅茶を少しずつ飲みつつ、色々と複雑なことを考えているように見えた。夢子は夢子で、最も仲の良い百合華が傷つけられたことに傷心しているようだ。
「穂積怜は全く理にかなわないことを言ってたとは思わないの…。私はたしかに、自惚れてる。プライドばかりのナルシスト。私の心を見透かされたみたいで、悔しい。でも、彼の言うように、穂積怜の気持ちなんて、少しもわからなかったのかも知れない…それが穂積怜をすごく傷つけていたから、彼はあそこまで怒ったのかも知れない。でも何が何だか、わからない…。」
「答えを出さなくても、いいんじゃないかな?もう済んだこととして、心の傷の回復を先決にした方が…」
「夢子は私のこと、バカって思うかも知れない。でも私、あそこまで言われて引っ込んでいられない。彼の言う様にプライド高いから、何でああまで言われなきゃいけなかったのか、きちんと解明したいんだ…そうじゃないと本当の意味で心の傷は治らない気がするし。」
沈黙が流れる。2人は紅茶をすすりながら、それぞれに複雑な思考に押しつぶされそうになっていた。
「本当にバカだよ、百合華。私なら、あんなこと言われたらもう2度と関わりたく無い。金輪際絶縁しても良い位のこと、言われてるんだよ?」
「わかってる。今、私、綱渡りしている気がするの。慎重にこのまま進めるか、どん底に落ちてしまうか。夢子みたいに、金輪際絶縁って言えないのが悔しい。私、思ってた以上に、穂積怜のことを特別に思っていたのかも知れない…。」
「もう…やめときなよ。また傷つくのは百合華だって。」
「そうだね、そうかも知れない。でも夢子、こうして話してて1つ気づいたことがあるの。」
百合華は涙を流しながら話を続けた。
「私、ずっとチヤホヤされてきてさ、それが当たり前だと思ってたし、それが壊れるのが何より怖かった。穂積怜はそんな私の本性に気づいてて、初めてそれを指摘してくれた人なの。私のクズなところ、修正していくいいチャンスかも知れない。本当の人間としての魅力を磨いて、穂積怜に見せつける、それが私が望んでいることかも知れない。」
「なるほどねえ。でも、それは百合華の根源を破壊される覚悟がなきゃ、無理だよ?どんなに人格否定されても、立ち上がれる強さがなきゃ、無理だよ。今までの人気モデルミキちゃんにそっくりのお嬢さんじゃ、何も変えられないんだよ?いいの?周囲の人たちからの評判落としても。百合華にそれが耐えられるの?そこまでする価値が、穂積怜にはあるの?」
「ある…と思ってるから、だからこそ自分磨きをしたいって思ってるんだと思う。このまま引き下がってたら、私、自分のこと嫌いになっちゃうかも知れないし。」
「百合華が傷ついても、毎回よしよしはしてあげられないよ?こうして、止めてるのにそれを無視して自分の意志を貫こうとしているんだから。それでいい?」
「うん……仕方ないよ。自分磨きして、夢子にも生まれ変わった本当の私を見てもらいたいから。虚像じゃなくて、本物の私を。」
「そっか…そこまで言うなら、百合華のこと止められないのは知ってるから。応援も協力もできないかも知れない、けど、見守っておくよ。どうしても追い詰められたら、いつでもうちおいで。マイルズも待ってるし。ね〜、マイルズ?」
夢子がいうと、マイルズは「ミャーオ」と返事した。
少し冷えてしまった紅茶を飲み干し、夢子に頭を下げてお礼を言い、自分のアパートへとぼとぼと戻った。
自分の判断が正しいのかなんてわからない。
でも私は、また同じことを怒鳴られたとしても、穂積怜のことを、知りたい。




