29. 透明な逆鱗
それから2人は、晴れの日はいつもの場所で、雨の日は編集室のデスクで、隣同士一緒に昼ご飯を食べることになった。
会社の人達からも何度も見られているので、付き合っていると思われるかもしれないが百合華は気にしなかった。穂積怜もそういうことを気にしている素ぶりは見せなかった。
百合華は1日のうち、昼休みが一番の楽しみになっていた。今までは仕事帰りのバー・オリオンだったのに。寡黙な穂積怜と比べると、昼休みの百合華は饒舌になっていた。
他愛ない雑談もするが、大体の場合返事はなく、穂積怜はさっさと弁当を平らげ喫煙所に去って行ってしまう。それでもへこたれず、百合華はなるべく多くの声をかける努力をした。いつの日か、穂積怜が、煙草より百合華と話している方が楽しいと思ってくれるかも知れない…という淡い期待を抱いていた。…穂積怜のことだからそんな妄想、叶う訳無いだろうと思いつつ。
弁当作りを初めて半月程経った。ほぼ毎日、違うレシピを考えて、どうせ気にされないと思いながらも配色や栄養にも気を配って、弁当を作り続けてきた。
ある日、昼食中にvolvoの話を思い出した。以前暴風雨の時に送ってもらった、カクカクの古い車だ。
「あれ、社長のお下がりって言ってたけど、社長とはどういう関係なんですか?」
ストレートに聞いてみた。返事は無い。
「ただならぬ関係…って言ってる人もいて、気になってたんです。嫌だったら答えなくていいですよ。」
穂積怜は答えず、喫煙所へ立った。
その日は空の弁当箱もバンダナも、置きっ放しで渡して返してくれなかった。
百合華は日々、せっせと弁当をこしらえて出社したが、段々、なんの話をすれば会話になるのかわからなくなってきた。弁当の見返りに、現金や奢りよりも会話が欲しかったのだけど…。
仕方がないから、気になることを順を追って聞いてみることにした。全てスルーされる覚悟の上で。
「穂積さん、正樹君と仲良いですよね。兄弟みたいです。私、兄と弟がいるです、穂積さんは?」
無視。
別の日。
「穂積さん、早食い競争に出たかったんでしょう?」
無視。
別の日。
「穂積さん、バーテンダー、サマになっていたのになんで辞めちゃったんですか?」
無視。
別の日。
「穂積さん、どことどこのハーフなんですか?当ててみましょうか?日本とアメリカ?」
無視。
ここまで無視が続くということは、本当に穂積怜は本当に個人情報を死守したいようだ。
また別の日。
「穂積さん、小さい頃の思い出で1番思い入れあることって何ですか?私は……」
「いいかげんにしろっ!!!!!!!」
穂積怜が叫んだ。
その日は雨で、デスクで並んで弁当を食べていた。周囲には桑山を始め、夢子たちや、他の同僚もちらほらいた。
「え………何か、怒らせちゃいましたか?」
百合華は究極に動揺して、動けない。消え入るような声で尋ねた。
穂積怜は大きな声で怒鳴り散らした。
「そうやって、毎日毎日、俺のこと聞いてどうしたいんだ!え?どうしたいんだよ?言ってみろよ?俺のことをあんたが知って、どうなるんだ。
関係無いだろ?俺と、お前は、アカの他人だろ?弁当作ってるからって勘違いすんなよ?俺は、あんたのことなんか、なんとも思って無いんだ。いや、思ってる。鬱陶しいんだよ。
あんたみたいに、ちょっとそこいらの子より可愛いからって調子こいて、他のやつらからどうみられるかばかり気にして、持ち上げられて自分で自分が愛しくてしかたがないナルシストなんか、興味もクソも無いんだよ!みてくれなんて俺の前では何の武器にもならねえんだよ。
あんたは人の気持ちなんか全くわかってない、そんなクズにしか俺には見えない。もう弁当なんて作ってくれなくて結構。今日までの分精算するから、仕事のこと以外でもう話しかけないでくれっ!!」
穂積怜は暗算で精算のことを考えている。
百合華は…動けない。喋れない。
夢子が近づいてくる。
「ちょっと、穂積さん。それはいくらなんでも酷すぎない?百合華は、あなたのために毎日毎日、心を込めてお弁当作ってきたじゃない。それを美味しくいただいてたんでしょ?それをいきなり何よ?聞かれて不愉快だったなら、もう少し違う言い方で相手に伝えるのが大人なんじゃないの?」
「あんたは関係ない、黙っててくれ。」
穂積怜は冷たい目で夢子を見下ろした。
「今日の弁当も、もういい。持って帰ってくれ。そして二度と持ってくるな。」
食べかけだった曲げわっぱの弁当箱の蓋を雑に乗っけ、包んでいたバンダナと一緒に百合華に突き出した。弁当箱は百合華の腕に当たり、そのまま床の上に落下した。弁当箱の中に入っていたご飯やおかずは、一瞬にしてそこら中に散らばった。
「あんた、何すんの!」
夢子が穂積怜の頬を叩いた。
「粗末にしちゃいけないのに…」
百合華は茫然自失してしまい、目に生気が無い。人形のような顔でそっと腰を下ろし、散らばった弁当箱の中身を素手で拾い始めた。
「…百合華!しっかりして!誰か!掃除用具持ってきて!」
美由紀やまりりん、正樹を始め、他の同僚たちも動揺してワタワタと何をしたら良いのか分からず混乱状態だ。そこへ桑山が、モップを持ってきた。
「折角作ったのに、こうやって掃除するのは悪いが、させてもらうよ。」
桑山は腰を屈め、百合華に声をかけた。
百合華は突然に悲しくなって、ポタリポタリと大粒の涙が滴った。
気づいた時には、「わああああああああああ」と慟哭していた。
百合華は自分の両手で、飛び散った食べ物を掻き集め始めた。
桑山以外の皆は、その様子に、緊張で震える者も居れば、混乱で凝固する者もいた。
桑山はそっと百合華の両腕を掴み、あとは俺がやるから。と言って、百合華を椅子に座らせた。腕や服に沢山ついた弁当の残骸を、夢子が1つ1つ掴んで拾った。
桑山は、落ちた弁当箱を拾い、床に残ったものを全てモップで片付けた。先程まで動けなかった者も、自分に出来ることを探し、雑巾をかけたり、モップを洗ったり、放置された弁当箱をバンダナで包んだりするようになった。
穂積怜はいつの間にか、どこかへ消えていた。
百合華にとって、人生で最悪の日となった。




