246. 石黒宅
「石黒さん!お饅頭と、もう1つ、お土産があるんです!上がってもよろしいですか?」
「金かい。」
「お金よりよっぽど価値のあるものですよ!怜さん、こっち」
スナック弥生を離れ、怜は百合華の近くへ寄る。
「誰だあいつ。」
怜は小さな声で恵子を見上げる。
「石黒恵子さんです。怜さんが赤ちゃんの頃、面倒見てくれていたようです。」
「へえ。石黒恵子登場か。」
「ご存知なんですか?そういえば前も名前あげてましたよね。」
「名前だけ聞いたことがある。」
「石黒さーん、上がりますよー!」
細くて暗い鉄の階段をカンカンと音を鳴らしながら2人で上がっていく。
前回の調査では、このドアを開けるのに苦難した。しかし今回は、階段の最上階に上がると同時にカチッとドアのロックを開ける音がした。
「毎日心配していました、石黒さん元気かな、花に水、あげてるかなって。」
「全く大げさな娘だよあんたは。おや、今日はボーイフレンドと一緒かい。」
「何言ってるんですか。石黒さんのよく知っている人ですよ?」
「知ってる?知ってるったって、あたしゃこんな若い知り合いはいないよ。」
石黒はしわしわの顔で、怜の顔を凝視している。
首を傾げて、
「誰だいあんた。知らない人だね。」
石黒は老眼鏡を取りに行き、怜の顔を再度舐めるように見て回る。しかし首を振る。
「知らないねえ。誰なんだい。」
「知ってますよ。彼が、赤ちゃんの頃の話ですけどね。」
「ああ?赤ん坊?」
やりとりに嫌気が差したのか、怜が声を出した。
「穂積怜。覚えは無いか?」
「ほづみれい……ほづみ……まさか…。」
「まさかのまさかだよ。穂積怜、弥生の息子だ。」
「怜ちゃん…なのかい。」
「怜ちゃん?そんな呼び方やめてくれよ。」
「だって、あんた…あたしゃずっと怜ちゃんって……」
このまま石黒の心臓が止まってしまうのではないかと心配になったので、百合華は「お部屋に入ってもよろしいですか?」と声をかけた。
「ああ……入っとくれよ。」
前回と打って変わって素直だ。怜の顔からいまだに目を離さない。
石黒の部屋は前回来た時より明るくなっていた。雨戸が開けられているからだ。百合華は石黒の変化に喜びを感じた。
怜はせんべい座布団に座るとあぐらをかいて、早速煙草に火を点けた。先日山盛りだった灰皿の中は、数本の吸い殻のみとなっている。窓を開放しているので、タールの臭いも前よりは気にならない。
「部屋、明るくなりましたね。」
百合華がショック状態の石黒に声をかけるも返答は無い。
「あんた達、腹は減って無いかい?」
「私たちはおにぎりを持っているので、大丈夫ですよ。」
「そしたらそれ、食っちゃいなよ、おしんこ位出すさ。あたしもおにぎりでも結ぼうかね。」
怜ちゃんが来るなんて…何て日だ……石黒はブツブツ独り言を言いながら、台所でおにぎりを作って、おしんこと共に持ってきた。
「本当に、本物なんだね?」
「しつこいな。本物だよ。免許証でも見せればいいのか?」
「ああ、そうだ。見せてくれよ。」
怜は苦笑しながら財布から免許証を出した。
石黒は老眼鏡を上下に動かしながら名前を確認した。
「確かに、穂積怜と書いてあるね。」
「これで信じてくれたか?ばあさん。」
「ああ………生きてたとはねえ……てっきり弥生に…まあいいや、飯にしよう。」
「そうですよ。皆でおにぎりいただきましょう。」
「お前は2つ、俺は4つ。どっちが早いか競争するか?」
「しません。」
3人は黙々とおにぎりを食べた。涼香の作ったおにぎりはそれぞれ味が違って美味しかった。
案の定百合華は怜に負けた。石黒は訝しげに怜の顔を見ている。まだ信じられないのだろうか。
「なあ、ばあさん。あんたが俺を信じなくても別にどうでもいい。俺だってあんたのこと、知らないんだから。俺は別にここに用は無いんだ。倉木、次どこだった。」
「ちょっと待ってください。石黒さん、思い出してますよね?怜さんのこと。」
「思い出してるよ、覚えてるよ。あのおぞましい世界で生きたあんたの赤ん坊時代を。」




