245. スナック弥生
「さて…と。」
話を変えるように怜が言った。汗をかいた手のひらを擦り合わせている。
「今日はどっち方面を回るんだ?」
「今日はスナック弥生跡と、その近くの石黒さん宅へと思っています。いいですか?」
「いいよ。」
「いいよ、って怜君、スナック弥生跡訪れるなんて、心の傷が痛まないの?」
涼香が涙を拭きながら心配そうに言った。
「傷を、癒しに来たんだ。」
涼香さんが昼用にとおにぎりを作ってくれた。百合華に2つ、怜に4つ。
ついでに水筒にお茶までいれてくれた。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。」
百合華と怜は竹内宅を出発した。時刻は午前10時前だ。
2人は太陽に停めてあるボルボへ向かって歩いた。
(お前と見ているからかな)
昨晩月を見ている時に怜が返したこの言葉は、段々何かの聞き間違えのような気がしてきた。本当に怜がそんなこと言うだろうか。現実的に考えると考えられない。しかし確認するのも勇気が要ることだ。曖昧なままにしておこう。
「竹内夫妻に話するの、大変でしたね。」
「楽しい話ではないから。」
「それでもよくまとめて話して、勇気あるなって思いましたよ。」
「そりゃどうも。」
ボルボに乗り込むと怜は煙草に火を点けた。
「そういえば怜さん、こっち来てから煙草の本数減ってませんか?」
「本当はもっと煙草に頼りたいよ。恐怖と緊張とストレスの連続で。でもバカのお陰で何とか自分を保ててるかな。」
エンジンをかけながら無表情で怜は言った。
改めて行き先を言わなくても、怜は黙々とスナック弥生があったスナック街へと向かっていた。普段は車内でも会話が弾むことが多くなっていたが、今日は様子が違った。ピリピリとした雰囲気が百合華を刺激する。スナックのぶ絵の明美さん、小学校、相沢宅と今まで回って来たが、ここまで張り詰めた空気の中向かった場所は無かった。
車が停まり、怜はエンジンを切った。「着いたぞ。」
スナック街に入るとすぐにスナック弥生の跡地はある。
「テナント募集」の錆びた看板に、砂利引きの地面。
怜はポケットに手を入れて、その場所を眺めていた。
「ここにいたのか、あのバケモノは。」
沈黙を破り、怜は独り言のように呟いた。
「俺の遺伝的な父親も、ここに来てたんだろうな…」
「父親のことを考えた事…今までありましたか?」
「まさか。ろくでもない野郎だろ。自分の血が憎い。」
重い言葉だが、怜は無表情のまま言った。時折流れてくる風に、髪やシャツをなびかせて、淡々と喋った。しかし百合華には怜の目に怒りの炎が見えた気がした。
怜は足元の砂利から大きめの石を広い、テナント募集の看板に向かって思い切り石を投げた。ガンッという大きな音がなった。
「今は…何を思って石を投げたんですか?」
「え?ああ。一生地獄で黙ってろ、人殺し。って。」
「…人殺し。」
「ああ。あいつが蓮とももを殺したんだ。」
「そうですね……以前、飯島さんというご夫婦と話をしたことがあるんです。」
「飯島?知らないな。」
「はい。弥生さんのご両親、父が達雄、母が頼子。その2人の話を聞いてきました。」
「俺の祖父母か。」
「そうなります。弥生さんは、この達雄と頼子に随分な虐待を受けていたということを飯島夫妻が証言してくれました。お腹を刺されたこともあるとか…。」
「だから弥生は、あいつは、俺たちを平気で虐待したのか。」
百合華は何と返事をして良いのかわからなかった。
「昔、病院に入ってた時、同じように虐待されてたやつと仲良くなったんだ。そいつが言ってた。『俺たちの代で虐待の連鎖は止めよう』って。」
「素敵なお友達ですね…」
「ああ。でも俺はそいつほど強い意志を持っているのか、本当にそれができるのか、自信が無い。」
「怜さんなら、できます。」
「また勝手なことを。俺の何を知っててそんなこと言えるんだよ。」
「怜さんなら、できます!」
「うるさい黙れ!お前にはわからないんだよ!」
声は荒げたが、怜の顔は相変わらず無表情だ。
「わかります。」
「俺がここで、この場所で、苛々してるのがわかってて挑発してんのか?」
「違います。それは、話がすり替わってます。私は、怜さんなら、虐待の連鎖を止めることができると言っているだけです。」
百合華もつい大声で応戦してしまった。すると
「おい、昼寝のじゃまをするな。」
石黒恵子の家の窓から、石黒が叫んでいる。花は今日も咲いている。百合華は怜を置いて石黒の元へ駆けて行った。
「石黒さん!この間来た、倉木百合華です!」
「ああ?あのお節介娘かい。現金は。」
「今日は……別のお饅頭を持ってきました!車に置いてあるので取ってきます!待っていて下さい!」




