243. 談話
相沢家ではまた会う約束をして、家を出た。のんびりしていたので時刻は22時を回っていた。
「ハンバーグ・太陽の閉店が22時半なの。急がなきゃ。」
2人は車にのり、竹内夫妻のマンションへと向かった。22時半を過ぎた頃、ハンバーグ専門店・太陽の駐車場に着いた。
店はもう暗くなり、シャッターが閉まっている。
「先帰っちゃったみたいですね。」
「そう遠く無いし、歩いて行くか。」
夜はすっかり更け、点在する街灯だけが2人を照らす。怜が幼かった頃は街灯すら無かったのではないだろうか。時折酔っ払いとすれ違うが、中には外国人の姿も見られた。その度に百合華と怜は気まづい思いをした。
百合華は涼香に電話をした。
「——涼香さん、今、太陽に車を停めて出たところです。遅くなってすみません、もうすぐ着きます。はい、ありがとうございます。では。」
「月が眩しいな。」
「…月が綺麗ですね。」
夏目漱石の逸話を怜が知っているかどうかは分からなかったが、百合華は言ってみた。
「確かに今日の月はなんだか綺麗に見えるな。」
手応え無しだ。
「…………お前と…見てるからかな。」
聞き間違え?…怜は、確かにそう言った…はずだ。いや、怜がそんな台詞、言うのか?
漱石の逸話によると、月が綺麗ですねは、愛しています、怜の返事はイエスに当たる表現だ。知っていて選んだのか。知らないにせよ、あの穂積怜がこんなロマンチックなことを言うなんて、バーテンダー時代には想像もつかなかった。百合華の心臓は怜に聞こえてしまうのではないかと思うほどにバクバク音を立てていた。
怜の表情は相変わらず、何も変化は無い。夜風を受けて、ウェーブのかかった髪を揺らして歩いている。視線は前を向いて、百合華の方は見ようとしない。
百合華は正直なところ、跳ね上がりたい気分だったが思い直した。今回の旅は、私情は抜きだ。情で動くと目が曇る。今の喜びは胸にしまって、明日からの活動のモチベーションへと切り替えよう。
「ところで、相沢さんと会えて良かったですね。」
百合華は会話を変えた。
「ああ、そうだな。きちんと謝れたから。」
「一つ、方がつきましたね。」
「そうだな……あ、太陽の定休日って何曜日?」
水曜日です。
「じゃあ明日だな。蓮とももの話は、明日しようかな。もし夫妻に用事が無ければ。」
「それがいいと思います。今日はもう遅いですしね。」
2人は竹内夫妻のマンションに着き、オートロックを解除してもらい3階の部屋へと入れてもらった。風呂に入り、ビールを飲みながら今日の事などを談笑していたら既に24時を回っていた。
「明日はお二人、何か用事ありますか?」
百合華が聞いた。
「いや、特に無いよ。君らは出かけるんだろ?」
「出かけるけど、その前に話したいことがあるんだ。」
怜が言った。
「そうか。明日なら時間はたっぷりある。ゆっくり話そうじゃないか。」
「じゃあ、今日は休みましょうか。」
百合華と怜は、客間の布団に入った。布団と布団の間には1mほどの隙間がある。
布団に入ると静寂が訪れた。百合華は疲れていたので今日も3秒程で眠れそうだ。すると
「倉木、起きてるか?」
小さな声で怜が声をかけた。
「はい?」
「俺はこの旅を、最初は恐怖と絶望の旅になるんじゃないかと思ってた。でも今日のように、昨日のように、楽しい事も沢山ある。」
「そうですね。」
百合華が囁いた。
「だから…その………」
心地よい怜の声を聞きながら、百合華は返事をする間もなく睡魔に負けてしまった。
「ありがとな。」




