237. 環
「怜さん、夜ののぶ絵…お昼に行った明美さんのスナックもまた味があって良いんですけど、今日は是非寄って欲しい面白いお店があるんです。疲れてなかったらどうですか?」
「ああ、いいよ。」
「じゃあ、行きましょうか。そんなに遠くないので歩いて行けますよ。」
「なんだ、五谷新町商店街じゃないか。」
「ここの奥にあるスナック、【環】というところに調査でも行ったんです。」
「へえ。」
「そこのママが、面白くて。情報欲しいなら美味い酒作れって。それで私、例の【ゴッドファーザー】を必死に思い出して作ったんですよ。」
「必死になるほど難しくないだろ。」
「そうなんですけど、急に言われたから配合とかわからなくて。」
「でも、できたんだ。」
「はい、ちょうど同じメーカーの物が置いてあったので助かりました。適当に配合したので、味は『普通』って言われましたけど。」
2人は暗くて細めの路地に入った。立て看板には『スナック環』と書いてある。ドアは木枠だがほとんどがガラス張りで、店内がよく見えた。
カウンター内に居座る巨大な和子ママもそこに居た。客も2、3人居る。
ドアを開けるとママが「あら。」と言った。
「この間来た子じゃない?」自信は無かったらしい。
「そうです、普通の味の【ゴッドファーザー】を作った者です。」
「ああ、そうそう、思い出したわ。弥生のこと聞いてた子ね。」
百合華は一瞬心臓が止まりそうになった。怜の前で弥生の名前を容易に出さないよう、ある程度気を使っていたのだが、和子ママはそんな百合華の考えなど知る由もない。
そっと怜の表情を見ると、怜も固まっていた。弥生という名前を他人から聞くことは、いまだに怜の傷を刺激するのだろうか。
「あれ…ちょっと待ってよ。」
ママは引き出しから年賀状を出してきた。
「あんた…ハーフよね。もしかして………」
「弥生の息子です。」
怜が言った。和子ママも流石にびっくりしたらしく、年賀状を持つ手が小刻みに震えている。
「まさかのまさか。この子がそんなに大きくなってるなんて。でも面影があるのよ。だからわかった。へえー。」
ママは怜のつま先から頭の先までじっとりと見ている。
「ママ、ちょっとゆっくりさせてもらっていいですか?」
「別に良いわよ。好きなとこに座って頂戴。」
百合華と怜はカウンターに座った。怜待ってましたとばかりに煙草を咥え、火をつけようとするがライターが着火しない。
すると和子ママが、昔ながらのマッチ箱を怜の方にスライドさせて寄越した。
怜は一礼すると、マッチを擦った。マッチ箱には、行書体で『スナック・環』と書いてある。
「和子ママは、以前の…スナック弥生があったスナック街でお店を開いていた方なの。それで弥生さんのことをご存知で。」
「ふうん…。」
「今日もなんか情報が欲しくてきたのかい?」
「いえ、今日は客として来ました。」
「こんな、じいさん達がカラオケで馬鹿騒ぎしてる場所にわざわざ客として来るとはねえ。」
確かに小さなミラーボールが回転している下、年配の客たちが演歌を歌っては拍手をしている。
「あたしゃ酒が飲みたいな。あんたまた、アレ作ってくれよ。」
「ママさん……それはママの仕事ですよ。」
百合華は笑いながら言った。
「じゃ、俺作ろうか。【ゴッドファーザー】でいいの?」
怜はカウンター内に入った。
「おや、兄さん酒作れるのかい。」
「元バーテンダーなんですよ。」
百合華が補足した。
「あらそう。じゃあ、そうね、【ゴッドファーザー】。美味けりゃアレがいい。」
「お前はどうする、焼酎、日本酒、シャンパン、ウィスキー…」
「私は日本酒、冷で。」
怜は手早く【ゴッドファーザー】を作り、ママに差し出した。
「お前は日本酒、冷で。俺は運転するからジンジャエールにでもするか。」
「あら!この間そこのお嬢ちゃんが作ったのより100倍美味しいわ。お嬢ちゃんあんた私を騙したわね。」
「いえ…そんなつもりは。」
百合華は苦笑した。
「なあ、和子ママ……」
怜はジンジャエールを飲み、煙草の灰を灰皿に落とした。
「穂積弥生は、ひとことで言うとどんな女だった?」
しばらくママは黙り込んだ。そして言った。
「クソ女よ。」
スナック・環のママは「勘定はいいわよ。また飲みに来な。必ずその兄ちゃん連れてくるんだよ。私は美味い酒が飲みたいんだから。」と言い放ち、百合華と怜は店を出た。
歯に衣着せぬ物言いをする環のママは時折直球の言葉を投げてくる。最後の「クソ女よ」には、百合華は凍りついた。しかし怜は機嫌を悪くすることもなく、その後も少しママと談笑をしていた。
「ママにああ言う風に言われて、大丈夫でしたか?」
「ああ言う風って?『クソ女』のこと?」
「…はい。」
「遠慮して遠回しにオブラートに包んで、良いところもあったけど、問題もあった…とか言われるよりずっとスカッとしたね。俺も同意だし。」
「そうでしたか。」
「お前も別に遠慮しなくていいから。あいつのこと、聞きたいことあれば聞けよ。」
「……はい。」




