235. 会話
「今、どんな気分ですか?」
百合華はいまだベンチに座る怜に尋ねた。
「よくわからない。染み付いた恐怖を思い出すのもあるし、蓮やももと過ごしていた時期を思い出して、懐かしいのと同時に胸が張り裂けそうにもなってるし。」
「あ、ところで怜さん、一つ疑問があるんですけど。」
「何。」
「怜さん、どうやって文字とか計算を覚えてんですか?」
「俺は家から出れなかった。給食の時間以外、外に出るのは禁止されていたんだ。見つけたら殺すと脅されてた。授業なんて受けなくていいと、弥生は言っていた。人が家を尋ねて来ても絶対に開けるなと命じられてた。
でも新学期が始まると、担任の先生が家へ来るんだ。でもドアは開けれない。俺は怖くて、『帰ってくれ帰ってくれ』って耳を塞いで願ってたんだ。そしたら『ここに置いておくからね』って言って先生は帰っていった。時間が経ってからそっとドアを開けると、教科書の束が置いてあった。それが毎年初年度の慣例になってたんだよ。」
「じゃあ、教科書で自習ですか?」
「うちは、何度も言うように本当に何も無かった。テレビもゲームも本もおもちゃも。外でも遊べない。教科書だけが娯楽だったんだ。わかったことを蓮に教えたり、ももに読み聞かせしたりできて、教科書は楽しかったよ。」
「学校の先生は、そんな状況の怜さんに手を差し伸べなかったんでしょうか。」
「いや、何度も訪問に来たし、勉強のプリントを新聞受けに入れてくれた。手紙も添えてあったり。プリントをやって、新聞受けに出しておいたら丸つけしてくれた先生もいた。確か1年の時の先生だ。だから文字を覚えられた。何とかしようと熱心な先生もいれば、事務的に来る先生もいたけど。」
「学校が把握していたのならば、児童相談所とかも把握していたんですよね。」
「多分ね。【ふくしの人】というのが何度も家に来たよ。多くても10回程度だったと思うけど。来ても無視してたら来なくなったんだ。今ほど虐待虐待って言う時代じゃなかったから、楽観視されてたのかも知れない。」
「弥生さんがいない間に、逃げようとか、助けてもらおうとは思わなかったのですか?」
「あいつは、『いつでも見張ってるからな』っていつも言ってた。それを信じてたから、下手なことしたら俺だけじゃない、蓮やももにも被害が及ぶと思って。」
「怜さんはいつも長男として、弟、妹を守っていたんですね…」
怜は口をつぐんだ。百合華の言葉は怜を揺さぶった。それは癒しの言葉でもあり、過酷を極める児童期の自分を想起させる言葉でもあった。
「怜さん、色々辛いことも聞いてばかりですみません。でも2人の旅なので、2人で沈黙のまま場所を巡っていても仕方ないと思ったんです。できるだけコミュニケーションは取りたい、怜さんの考えを分けて欲しい、そう思っています。迷惑ですか?」
「いや、俺もそのつもりでいたから。」
「良かった……答えたく無かったら正直に言ってくださいね。」
「ああ。ところで、少し腹減ってきたな……」
「じゃ、ボチボチ行きますか!」
「どこに。」
「ハンバーグ専門店・太陽、ですよ!」




