234. 五谷図書館
五谷小学校を後にして、ボルボ240に2人は乗り込んだ。
「まだ土ついてますね…。」
「青春っぽかったな…年甲斐もなく。」
運転する怜の左肩は、まだ土色が残っている。百合華はそれをパシッと叩いて落とした。華奢な体をしているくせに、運動神経は良い。そういえば恭太郎も怜の身体能力に驚いたと話していた。
髪の毛にも土がついていた。優しく接して変に誤解されたくないので、ふざけて怜の後ろ髪をワシャワシャと上下に揺らした。
途端に怜が叫んだ。
「やめろよっ!」
「ごめんなさい!」
「あ、ごめん……気にしないでくれ。」
「運転中だったのに…すみません。」
「違うんだ…。五谷に来て、新しい発見もある。嬉しい出会いもあった。さっきの授業も競争も、楽しかった。だけど神経が高ぶっているんだ。どうしても幼少期を思い出してしまう。暇があると幼少期のことを考えているんだ。
今、髪を触られた時、あいつ…母親に髪を掴まれたシーンを思い出してしまったんだ。突発的にね。相手がお前って気づいた時には遅かった、悪かった。」
「そうでしたか…それはごめんなさい。配慮が足りませんでしたね。」
「いや、お前も俺の考えてることまでわからないだろうから。本当はあいつには、『やめろよ!』なんて言えるほど強く無かったんだ。やられっぱなしの貧弱な少年だったんだよ。」
「一番頼りにしたい人にそんなことされるんですから、言い返せないのは仕方ないですよ……。」
「それで、次の目的地は?」
「怜さん、どこかありませんか?」
「じゃあこの道沿いにある、市立五谷図書館に寄ってみてもいいか。」
「勿論です。」
2人は図書館の駐車場に停め、図書館を見上げた。
円形の大きな屋根は、怜にとって懐かしいものであった。しかし20年以上も経つコンクリートには大きな染みが目立つ。
百合華は調査の時にこの図書館には辿り着かなかった。芋づる式では繋がらなかった場所だ。きっと怜の個人的な思い出の場所なのであろう。
2人は黙ったまま図書館へと入った。開放的で温かみのある館内では何人もの人がそれぞれ本を探したり、腰掛けて読んだりしている。
怜が受付に近寄り、司書に尋ねた。
「育児コーナーはどこですか?」
「育児ですね、30番の通路にありますよ。」
司書の人は2人が夫婦に見えたのだろうか、いつまでも微笑ましそうに2人を見つめていた。
「変わりないんだな。30番。」
「怜さん、どういうことですか?」
「まあちょっと待て。」
図書館ということもあり、それ以上その場では追求しなかった。
怜は育児書のコーナーへつくと、膝に手をついて腰をかがめ、懐かしそうに本の題名を左から右へ眺めていた。
時折取り出しては、中身をパラパラめくる。
「ああ、これだ。これには助けられたんだ。」
一冊の育児書を手に、ゆっくりとページを捲っていた。
百合華は、ももちゃんのことを思い浮かべた。母親不在の中、どうしたらももちゃんが健康に育つのかわからなくなった怜が図書館に駆け込んだ姿を。
「これで満足だ。出よう。」
怜は本を丁寧にしまい、すたすたと先を歩いて行ってしまった。怜が最後に手にしていた本のタイトルは『0さい〜3さいのこどもがしあわせになる本』だった。
図書館を出ると、玄関のすぐ横に設置してあるベンチに怜は座っていた。
「ここには、どんな思い出があったのか聞いてもいいですか?」
「ももが……まだ赤ちゃんだった頃、凄くグズつく時期があって、どうしたら良いかわからなかった。誰も教えてくれないし、ゴミ屋敷にはそんなこと教えてくれる教科書も無い。俺は、蓮とももを部屋に置いて、走って図書館へ来たんだ。」
「走って!結構な距離ですよね、コーポ室井からだと…」
「それくらい必死だったんだよ。蓮も幼かったし、急がないと何があるかわからなかったから。」
「当時も30番の列に、育児書が?」
「そうだ。離乳食という存在を知ったのがその時だ。それと…」
「それと?」
「相沢茜と会った。初めてゆっくり話をした場所なんだ、ここは。」
相沢茜…調査中に話を聞きたかったが、仕事の関係で結局会えたのは茜の母だけだった。相沢茜と怜は、金を借りたり、保護される時にも一緒にいた仲だと聞いている。特別な仲だったのかと思うと…例え小学生でも、百合華は少し複雑な気持ちになった。




