230. 明美
スナックのぶ絵のドアをノックすると中から「はーい」という明るい声が聞こえた。明美だ。百合華がドアを開けると背後から怜がドアを抑えてくれた。
2人で明美の前に立つと、時間が止まった。
2秒…3秒……4秒………。
明美の脳は突然の出来事に整理が追いつかないらしい。百合華はそんな明美が…年上だが…可愛いと思った。
明美は掃除をしていたのか、手に布巾を持っていた。夜の明美は落ち着きの中に神々しい美しさが光っているが、昼間の明美はナチュラルな美しさを放っている。今日もラフなリネンのシャツとベージュ色のスカートを纏っている。
5秒…6秒……7秒………。
「まさか。」
明美がやっと声を出した。それも、囁くような小さな声で。
「穂積怜さんです。サプライズにしたくて内緒にしていました、すみません。」
明美はいまだに固まっている。
怜はそんな明美を不思議そうに観察している。
「ほ、穂積怜さんって、あの穂積怜さん?」
「そうですよ、明美さん。」
明美は年賀状の幼い頃の怜の姿しか知らないので、こんなに成長した男性を見てパニックになるのも無理はない。
「ちょっと待って。もう、言ってくれれば良かったのに!すっごいびっくりした。」
「すみません。明美さんのびっくりした顔も見てみたくて…」
百合華が笑うと、明美は目を細めて百合華を見た。
「どうしてまた、急に穂積さんが一緒に?」
「今回の旅は、2人セットなんです。」
「2人セットって何よ。」
明美がかわいらしく笑う。怜は呆れたような顔をしている。
「はじめまして。穂積怜です。今回は自分に折り合いをつける為にこうして五谷に来ています。10歳の時以来ですから、28年ぶりになります。」
「あなた見かけより若いわね。それに、本当に美しく育ったのね。格好いいとかイケメンとかじゃないの。美しいという表現がぴったり。それから…背が随分高いのね。」
暫く雑談した後、明美が言った。
「百合華ちゃんはいつもお昼時に来るんだから。狙ってるのかしら、ねえ。穂積さん。今日はね、たけのこご飯があるの。この間たけのこを沢山戴いてね。副菜も作るからちょっとだけ待ってて。」
「いえいえいえ、明美さん、ちがいます!お昼時を狙ってませんよ、偶然です。
あ、忘れてた、怜さん、西脇まんじゅうを。」
「これ、つまらないものですが…」
「あら、ありがとう。じゃあなおさら食べて行って。」
「そんなあ、いつも悪いですよ。じゃあ今日はお金払いますから。」
「何言ってるの。自分が食べる分を少し多めに作るだけよ。気にしないでいいわ。」
話しながら明美はどんどん支度をしていく。手際の良さにさすがはママだなと関心する。先日調査でお世話になったスナック【環】のママも、こんな風に機敏に動けるのだろうか。
「穂積さん、お飲み物は?」
「あ、俺運転しているんで。」
「じゃあ、烏龍茶でいいかしら?百合華ちゃんも今日はフェアに烏龍茶ね。」
あっという間に、たけのこご飯と青菜と油揚げのおひたしと野菜たっぷりの汁物が出てきた。3人でカウンターに並んで食べることにした。一口食べて百合華は唸った。
「んー。美味しい。さすが明美さんです。」
「ありがとう。穂積さんは、お料理はするの?」
「はい、基本、自炊です。」
「あら、美しくてその上料理上手だなんて、モテモテでしょう。」
「でも彼、愛想とか愛嬌が無いんです。」
「うるせえな。」
「そのくせ、私には偉そうにしたり怒鳴ったりするんですよ?どう思います、明美さん。」
「お前が言われるようなことするからだろ。」
「してなくてもいちいちうるさいじゃないですか。」
「あらまあ、仲が宜しくて。」
「明美さん、違うんです。そういう関係じゃ。」
「じゃ、どういう関係なら2人セットで旅するのかしら?」
明美は上品に烏龍茶を飲みながら、悪戯な笑みをたたえて2人を覗いた。
「割り切った関係ですよ!」
百合華は自分の顔が赤くなっていないことを願いながら精一杯の返答をした。
「男女の仲に、割り切った関係なんて無いのよ。」
百合華の顔は、完全に真っ赤になった。