228. 出発
翌朝、ボルボ240は百合華のアパートの前で待っていた。怜は煙草をふかしている。百合華は荷物を後部座席に乗せ、自身は助手席に座った。
シートベルトのカチンッという音と共に怜が言った。
「さあ、行こうか。」
道順は百合華の方が慣れているかと思ったら、全くそんなことはなかった。ボロボロ…ならぬボルボには純正ナビなど付いていないし、後付けのナビも見当たらない。
「道順、知っているんですか?」
「ああ、昨日地図見てきたから。」
「地図って…紙の地図ですか?」
「そうだけど。」
「アナログですね。」
「うるせえ。」
車は順調に西脇を出て、綾谷市へと入った。
五谷市は綾谷を越えたところにある。
「私、五谷に行くとき、よくレ・ミゼラブルのサントラ聴いてたんです。」
「車で聴く曲か?」
「場所なんて選びませんよ。本当に良い曲が沢山で、涙が出ますよ。」
「ああそう。」
「興味なさそうですね。レ・ミゼラブルのストーリーは知ってますか?」
「まあ大体。1個のパンを盗んだだけで長期服役した男の話だろ?」
「男の名前はジャン・ヴァルジャン。飢えの苦しみのため1本のパンを盗んでしまう。仮釈放されたヴァルジャンはまだ心が荒んでいたんですが、とある司教に出会います。
ヴァルジャンはその司教が持っていたシルバーの食器などを盗んでしまい、捕らわれてしまうのですが、司教は『それは私があげたものだ。これも持って行きなさい。』と言うんです。そこでヴァルジャンは今までの愚行を悔い改め、人々の為になる優しくて温かい人物に変わっていく…というような話です。」
「俺にヴァルジャンになれって言いたいのか?」
怜は苦笑しながらハンドルを握っている。
「そう言う意味で熱く語ったわけではありませんけど…人は変われる、人は変わっていく…というストーリーは私たちの旅のテーマに似ていると思いませんか?」
「……出発したばかりなのに、テーマまで決まってんのか?」
「いいじゃないですか。」
「旅のテーマが『ああ無情』って、はなから悲しすぎないか?」
2人は同時に笑ってしまった。
「じゃあ、『ああ感動』なんてどうですか。」
「『お前に失望』にならなきゃいいな。」
「『あなたは非情』ですね。」
「『お前は強情』だ。」
「………。」
「冗談だよ。」
五谷までの行き道は百合華にとって見慣れた景色となっていた。いつもと違うのは自分が助手席に居るということだ。それも、怜の車の。
怜の運転は心地よかった。ボルボ240は快晴の下、五谷へ向かって行く。
百合華のプランでは、五谷に着いたらまずはスナックのぶ絵の明美のところに挨拶に行こうと思っていた。不在だと困るので、一応昨日連絡しておいた。怜も一緒だということは内緒にしておいたので、きっとびっくりするに違いない。
車が五谷市内に入った。怜の顔を覗くと無表情だった。
「怜さん、何か考えてますか?」
「正直、ついに着いてしまったと思ってるよ。後戻りは出来ない。」
「私も着いてますから。」
「俺を臆病者扱いするなよ。」
以前、百合華は怜に『あなたを守る』と言ったことがある。その時怜は、確か『お前みたいな温室育ちに何がわかる』と怒鳴られた。
それでも、何でも良い。この旅は怜にとって過酷な旅だということは、調査をしてきた百合華には良くわかる。
何を言い返されても良い。百合華は思ったことは怜に率直に語りかけようと思った。怜は無口だから何を考えているかわからないところがあるが、こちらの問いかけには怒鳴りながらでも答えてくれることが圧倒的に多くなっている。
この旅の鍵の1つは、2人のコミュニケーションだ、と百合華は思っていた。
「怜さん、最初に寄って欲しいところがあるんです。五谷新町商店街の、のぶ絵というスナックです。道は案内しますね。」
車は五谷の駅前を通り過ぎようとしていた。そこで怜は一旦車を停めた。
「すごいな…駅がこんなに変わってる……」
「以前とだいぶ違いますか?」
「ああ。前は無人駅だった。ももの……俺と蓮が学校へ行っている間の安全を確保する為にバウンサーというものを、隣町の綾谷に俺1人で買いに行ったことがあるんだ。」
怜はしばらく駅を見ていた。自動改札など以前は無かったのだろう。あまりに変わってしまった景色の1つ目として出会ったのは、五谷の駅だった。