19. 噂話
ちょび髭店長が、「甘辛チキン揚げですよ、新メニューね!」と、カウンターに持ってきた。ビールに合いそうな一品だ。
「おお、ありがとうマスター、美味そう美味そう。」
桑山は嬉しそうにチキンを口に運んだ。
「こりゃ美味い。マスターこれ、売れるよ、間違いない。」
本当に美味しそうに噛み締めて、交代にビールを喉に流していく。
「倉木も良かったら。ほら、美味いよ。」
皿を百合華の方に差し出してきたので、百合華は遠慮なくチキンを一本いただいた。
「本当だ、店長すごい才能。穂積怜が居なくなっても経営に問題は無さそうで良かった。」
少し仏頂面でビールを飲む百合華を見て不思議そうに見ながら、ちょび髭店長は別のところへ接客に移動した。
「なんだよ、穂積君がここで働いていた頃は目をハートにしてたくせに、最近の君は鬼の形相だな。」
「桑山課長は、穂積さんの事どれくらい知っているんですか?知ってたんですか?編集部に急に来る事。彼はなんであんな不遜な態度を取るんですか?彼は何が気にくわないんですか?私のせいですか?」
「おいおい、質問は1つづつにしてくれないか(笑)」
ビールを美味しそうに飲みつつ桑山はひとつ咳払いをした。
「穂積のことは、ほとんど知らない。でも、彼が何か重いものを抱えているのはわかる。」
「重いもの……何でしょう」
「それはわからない。でも尋常じゃないものを背負って生きているよ彼は。」
桑山の言わんとしていることは、抽象的でわかりにくい。
だが、穂積怜が捻くれている現状、特段何も無い何処にでもいる平凡な人間だろ、と軽く言われる方が違和感がある。
「それから何だっけ?俺が奴が入ってくるのを知ってたかだっけ?知らなかったよ。数日前に急に社長から聞いたんだ。バーテンが来るってことは聞いたけどね。」
「なんで敢えて、私たちの編集室だったんでしょう、他にも手が足りない部署はあるはずなのに…」
「さあねえ。でも社長は俺ら3階のメンバーを大事にしてくれてるみたいだから、そこに置きたかったのかねえ。」
桑山は4本目のチキンをつまんでいる。
「それから?不遜な態度?うーん、それはだから、あいつが腹に抱えているどす黒い何かに繋がってるんじゃないかと俺は推測しているんだけど、情報が少ないからよくわからんな。」
「私、一応リーダー任されてるじゃないですか。穂積さんが投げ出してプロジェクトが頓挫したら、私の責任問題になると思ってて、最近胃が痛くて…」
「あいつの悪態の理由は倉木のせい、では無いよ。あいつ本人の問題だと俺は見てる。とにかく、新人くん達が入ってきてまだ1ヶ月ちょいだろ?もう少し長い目で様子を見よう。穂積が辞めるなら辞めてもいい。彼が決めることだ。とにかく今はプロジェクトを進めないと、納期があるからな。明日からはカチンときたら、自分はNで穂積もNって思えばいい。」
「桑山課長、意味がわかりません…。」
「磁石だよ。君らは今、N極とN極同士なんだ。何かの拍子に、NとSに変わるかも知れない。でもまあ、先のことはともかく、今は穂積の悪態のことは深く考えずにプロジェクトの方を優先して考えてくれ。」
「…わかりました。はあ〜………。私、本当に、穂積さんがここで働いていた時の美しさに圧倒されていたんです。まるで希少な芸術作品を見て心を震わせるように。でも今、あの時の穂積さんはいなくなって挑発的で利己的で、どう扱っていいのかわからなくって。自分で自分の力不足に嫌気がさします。」
「あいつがここに居た時は本当にカウンターが煌めいていたよなあ。細長い身体して真っ白な肌してさ、バーテンダーとして華があったよな…あ〜愛想無かったからマイナス1ポイントかな。」
「マイナス1万ポイントですよ!今だって、愛想さえあれば悪態も少しは許せるのに……あ、そういえば、穂積さんが38歳だって知ってましたか?」
「うんまあ、それは社長から聞いてたから。若く見えるよな。俺が社長から聞いてたのは、社長の考えでは穂積をこの歳で俺らのところに入れるのはプラン通り…というようなことだったかな。」
「ええ!社長は穂積さんに対するプランがあるんですか!」
「よくは知らんけどね。この間、バーテンが俺らのとこに来るという話をしていた時に、社長が言ってたんだ。「あー、やっとこの日が来た!」ってね。」
「そういえば、英会話レッスンの時も、社長、ものすごく満足そうにしてました…」
「英会話レッスン?」
「はい、穂積さん、バーの仕事が終わった後、毎晩1時間、米国人の先生から英会話のレッスンを受けていたんです。半年間、毎日ですよ?ちょっとした事情で、たまたまその最終日に私が立ち会ってしまって、お祝いパーティーみたいなのに一緒に参加しちゃったんですけど。レッスンが終わった後、社長泣いてたんじゃないかなあ〜、怜がここまで来た…みたいな雰囲気だったから…」
「へえ〜そりゃ完全にうちの編集室狙っての準備だな。社長と穂積の関係性が気になるけど、プライベートなことだ。俺たちは今は…」
「プロジェクト、でしょう。はい、わかってますよ。明日は怒らないようにリードしていけるよう、頑張ります。」
桑山は5本目のチキンを食べ終えて、少しお腹をポンポンっと叩いてビールを飲み干した。甘辛チキン揚げはカロリーが高そうだが、桑山と以前一緒に飲んだ時、筋トレが趣味だと言っていたから、これしきの事で太ったりはしないのだろう。
「そういえば最近、社長夫人が屋上緑化計画を完成させようとしているらしいな。」
桑山が言った。
織田社長の夫人、優子は、元々は織田出版で社長の右腕として働いていた。しかし数年前体を壊し、毎日の仕事はこなせなくなった。
その代わり、リハビリを兼ねて北方ビルディングの屋上を、社員が過ごしやすい場所として開放できるように緑化計画を実行し始めたのだ。
北方ビルディングの屋上はさほど広いとは言えないが、普通のベンチを6個位、それにプラスしてテーブルをいくつか置く位のスペースはあったと思う。
「完成したら、屋上で気持ちよくお弁当食べると良いわよ!」
優子が前に百合華に言ってた事を思い出した。
リハビリを兼ねての優子のプロジェクトの完成が近いのは、百合華にとっても低迷していた気力を後押ししてくれるきっかけになった気がする。
屋上でお弁当、楽しみだなあ。
女子会メンバーで一緒に食べれたら楽しいだろうなあ〜。
「何考えてんの?」桑山が言った。
「あ、屋上緑化、気持ち良いだろうな〜と思って。優子さんも凄いですよね、私も頑張ろうって思いました。」
「喫煙所も作ってあるのかな。」
そうか、桑山もヘビースモーカーだった。
「無いんじゃないですか?」
百合華はさらっと答えた。そして相談事の最後に、気になる事を1つ聞いてみようと思った。
「桑山さんって、バツイチですか?」
「……なんでわかった?」
「なんとなく雰囲気で(笑)今日はありがとうございました。」
また何かあったらすぐ言えよ、と桑山は言った。
桑山はもう少しゆっくり飲んでいく、というので、疲労困憊の百合華は礼を言って中座することにした。
周囲に綺麗と言われると得することがある。
そのひとつは、ほとんどの場合、勘定で自分が支払う必要が無いことだ。
自意識過剰なのはわかっている。でも今日も奢ってもらった。
自意識過剰…だなあ…。
電車に乗った百合華は、ガラスに写る自分の顔を見て、本当は過剰だとは思っていない自分に気づかないフリをした。