217. 織田と穂積
————年に数回あるかないかの豪雨の中だった。僕と怜は地に立っていた。雨で怜の顔はよく見えなかったよ。ただ、動きは見えた。明るい色の服を着ていたからね。あの日も白っぽいシャツを着ていたのかも知れない。
心から願っていた。頼むから海へ落ちないでくれ。頼むから。
僕が近づいたら反射的に落ちてしまうんじゃないか…身を引いたらその間に落ちてしまうんじゃないか……葛藤の嵐だよ。
絶望がちらつくその現場で、突然動きがあった。
バシャバシャバシャと地面の音を鳴らしながら、怜が僕に飛びかかって来たんだ。
一発目の攻撃は何とか避けることができた。しかし、視界が悪くてしかたが無い。目に入ってくる雨が痛くてたまらない。おまけに服は水を吸いきって重くなっている。僕はまずスーツのジャケットを脱いで、怜を探った。すると、またバシャバシャッと走る音とともに、次に来たのは激痛だった。
怜のやつ、僕の肩辺りに飛び蹴りを入れてきたんだよ。
いや、僕ね、前も言ったけど空手有段者だしね、前から何度か怜と闘いになったことはあったって話はしたでしょう?いつだって僕はビクともしなかったんだよ。怜の攻撃が僕に当たることが無かったんだ。
それが突然の飛び蹴りで、こっちは予期していなかったから身体的な衝撃が凄まじくてね。そのまま僕はぶっ飛ばされた。
ぶっ飛ばされた所に走ってきて、僕に馬乗りになって、僕の顔ボコボコ。僕はね、技術的に攻撃を回避することもやり返すこともできたけどね、しなかった。せずに考えてたんだ。一体いつからこいつはこんなに強くなってたんだろうって。
パンチも前は猫のパンチかっていうかわいいパンチしかできなかったくせに、一丁前に殴打してくる。それも連打でだ。連打は殴る方も痛いし疲れてくる。それでも怜は息を切らさず、僕の右頬、左頬を器用に連打していた。
ここで不本意に気絶してしまっては本末転倒なので、僕も少し技を使って怜を退かせた。やつの上達したパンチを払い、こっちから前蹴りから入って突きの連打で怜を弱らせた。仰け反って倒れた、と思ったらまた起きあがって、僕に向かってきた。
怜は背が高くて手足が長い。いわゆるリーチの差があったんだ。身長差は10cm位だったけどね。
突然スッと出てくる前蹴りなんか、結構さまになってたよ。
僕はまあ、応戦していたんだけど、何度も言うが本当に視界が悪いんだ。その上、怜はすばしっこかった。右にいたと思ったら左に移動している。彼の運動神経は大したものだったよ。
敢えて謙遜はしないが、その不利な条件下でも僕の方が有利だった。それでも、気合いでは怜の方が優勢だった。
冗談がそこには無かった。怜は死闘をしていたと思うんだ。
僕らは攻撃を受けると、足元が滑るせいでよく態勢を崩した。僕が怜に攻撃をする。怜も似たことを僕にする。怜も僕も足元よろめいてコンクリートの地面で顔擦りむいて顔面血だらけだよ。
僕は怜のことを、息子だと思って接していた。他人じゃない、我が子だ。我が子が葛藤している現場に立ち会っているんだ…と、闘いながら僕は思った。
だったら……。
手加減なんてしたら失礼なんじゃないかと思ったんだ。もちろん、限度はあるにしても。
だから僕も本気を出した。空手の型なんて全部無視して、僕も怜に馬乗りになって左右から殴打をしたんだ。すると怜は僕を上手いことひっくり返して同様のことをする。
怜の食いしばった口からは、ダラダラと血が流れていた。僕も同じだっただろう。
僕が感覚的に回し蹴りを入れた時、怜が飛んで行った。そこで勝負はついた。怜はついに起き上がれなくなった。
大雨の中、僕は怜を抱きしめた。俺は、お前の父親だ。そう言ったよ。
「だから、頼む。一緒に帰ろう。」
そう言ったんだ。すると怜は血だらけの歯をみせてニッと笑ってみせた。
「…お前の勝ちだ。」
僕はそう言った。なぜだろう、僕は怜の笑を見て、<負けた>と思ったんだ。
「そうだ…俺の勝ちだ……」
「ああ。強くなったな。さあ、優子が心配している。帰ろう。」
怜の顔面には豪雨が直撃していて、顔面の血を洗い流していく。傷だらけだけど、綺麗な顔をしていたよ。
そして怜は言ったんだ。痛そうに顔を歪めて、ぐったりした状態で、言ったんだ。
「…ありがとう。父さん。」
その時に初めて雨が降っていることに感謝した。僕の顔は血と涙と雨でグシャグシャになっていただろうから。