216. 織田夫妻・17
————怜が帰宅しなかった翌日、僕と優子は仕事があったから日中は家を出ていたけど、当然心配はしていた。でも僕らが家に帰ればあいつはいると思って帰った。豪雨も相変わらずで、ワイパーを最速でかけても前が見えない位の雨だったよ。
しかし怜は居なかったんだ。車も無かった。メッセージも、何のあても無い。
————そしたらこのひとの…恭太郎さんの顔がサーっと血の気が引いていくのがわかったの。
「優子、行ってくる。待っててくれ、頼む。」
それだけ言ってでて行っちゃって。
怜も消える、夫も消えるで、取り残された私は頭真っ白。
————僕にはね、怜が家に居ないと悟った瞬間に映像が見えたんだよ。あいつが、怜が、行きそうなところ。優子に言うと色々面倒…いや、面倒くさいという意味じゃなくて、面倒に巻き込むっていう意味だよ、全く。
失礼。
そういう訳で、優子は置いてその場所に直行した。危険な運転だったよ、本当に前が雨のせいで見えないんだ。
もうわかるよね。その場所とは、僕が第一発見者となった現場。その埠頭にボルボ240エステートは停めてあった。夕闇でね、大雨だし視界悪いし、車もエンジンかかっていなかったんだ。だからライトも点いていなくて。すぐ横に停車するまではわからなかったよ。
僕は最悪の事態を頭から振り払うのに必死だった。必死過ぎて何考えていたか覚えていないよ。豪雨の中、僕は車から降りた。傘なんか持っていても全く意味ない位の雨だ。会社帰りだからスーツだったのかな、そのまま降りて、隣に停めてあるボルボの運転席を覗いた。よく見たら、居たんだよそこに。怜が。ああ、良かった……って、豪雨と涙がごっちゃになっちゃってね、僕はそこで全ての力が抜けてしまったんだ。
しばらく豪雨を受けながら……力が戻ってくるのを待った。そして立ち上がり、運転席をノックしたんだ。そもそも僕が覗いた時に何故開けないんだ、とはその時思ったけど。
ノックをしても素直に開けない。じゃあ僕が開けてやろうと思っても案の定ロックがかかっている。
怜は、素の顔で、フロントガラス越しに大荒れの海を見つめているんだよ。
僕は何度も何度もドアを叩いた。最大限の声を出して「怜!開けろ!」と叫んだけど、雨が車を打つ音とかで打ち消されて聞こえなかっただろうな。
ドアを叩き続けていたら、数分後に怜はちらっとこちらを見てロックを解除した。僕はドアを開けて、怜に「帰ろう、優子も心配している。帰ろう。」と訴え続けた。でも怜はもぬけの殻のようで視線を海から離さないんだ。
怜の意識が正常じゃないと判断した僕は、彼の襟元を掴んで少し持ち上げて、耳元で言ったんだ。滝の中で叫ぶように、「帰ろう!家に帰ろう!」と言った。それでも何の返事も無い。
倉木さん、怜は、施設を退所してから、心にぽっかりと大きな穴が開いてしまった。怜にとって、蓮君やももちゃんの…気配、声、触れ合い、記憶、共有、思い出………全てとお別れしたのは、施設退所の、その日だったんだ。
18と言う年齢は、怜にとって特別な意味を持っていた。それから続いた1日1日が怜にのしかかり、10年経った。
もう大丈夫!!なんて、誰に言えると思う。
怜は海を見ていた。海と混じり合ってしまうのではないかと心配になるくらいに、怜の目には海しか写っていなかった。
僕は直感で、このままではまずいと思ったよ。
最悪の事態を回避できるかどうかは僕次第だ…
怜の第一発見者として現場に1人で居た時、似たような感覚を覚えた。
もう自分の力に頼るしか無かった。
ボルボを置いて、こいつを僕の車へ運んで連れて帰ろう。そう思って、怜を思い切り運転席から引っ張り出した。
怜は力が抜けていたから、案外簡単に外へ出た。怜を担いで僕の車に乗せようと思ったら、突然怜が暴れ出した。離せ、離せーって、絶叫するんだ。
僕が『離すか!家へ帰るんだ!』というと、怜は力を入れてくるっと回転して地面に着地した。そんな力や運動能力があるとは思わなかった。そんな感心している場合じゃなかったけどね。最悪の状態だ。これで海に飛び込まれたら、僕は怜を助けられるか……。自分が泣いているのかどうかもわからない、全てを麻痺させる、痛くて意地の悪い豪雨だったんだ。




