213. 織田夫妻・14
その日の話は切り上げて、夕食を優子と共に作った。
今日の晩御飯は白身魚のフライ、タルタルソース添えがメインだった。
「怜さんはこれも好みだったんですか?」
「好きだったはずよ、好みが変わってなければ。明日様子見て教えてね。」
百合華は明日の朝早起きして、魚のフライに合う副菜を詰めることを考えていた。
百合華はお風呂を上がって、宿泊させてもらっている部屋に戻った。2つのブラックホールは、怜が作った、怜の苦しみや悔しさの痕跡。慣れない環境でもがき苦しんだ証…。
百合華は自分の足を、壁に開いた穴に当ててみた。相当蹴り飛ばさないとこんなに大きな穴は開かないだろう。
今でこそ、暴力とは結びつかない穂積怜だが、若かりし頃は体を張って抵抗していたのだ…生きることに。
そんな怜を受け入れる織田夫妻の苦労も想像をはるかに超える話ばかりであった。怜は施設で愛情を受けて育ってきたけれど、家庭に入るのは初めてだ。困惑を乗り越えるのには時間がかかっただろう。勿論、双方にとって。
それに…車。車が、彼の大事な弟・妹を失う原因となった。百合華は窓が少し開けられた以外、密閉されている車内で、水がとめどなくなだれ込んでくるシーンを想像してみた。
そして、大事な者たちを失うことを…。
翌朝、百合華は卵焼きや野菜を添えて曲げわっぱの弁当を完成させた。食材は冷蔵庫から使わせてもらっているので、百合華は生活費の一部として費用を出したいと申し出たが、優子から断られた。
しかしそれだと心苦しいというと、「インターネットで美味しいコーヒー豆の販売を見つけたの。焙煎工場から直送でね。その豆を買ってくれればOK」と優子から言われたので、豆がなくなったら注文する、ということになった。
そもそも、あとどの位の滞在となるのかは不明だが…。
午前の仕事で海外の出版社との会議をインターネット電話でしていたのだが、双方言い分がずれ、埒があかず、時間ばかり刻一刻と過ぎていった。会議に参加していた者は順番に提案や折衷案を出すのだが、相手はNOばかりだった。
急遽、課長である桑山も参加し、交渉相手が問題視する部分を徹底的に会社側で補完することを約束し、なんとか会議が締結した。
桑山が苛立たしげに会議室を出て行ったので、百合華は急いでおいかけた。
「すみません、桑山さんまで巻き込んでしまって…準備は充分していたのですが、予期せぬ方向へ進んでしまいまして…」
「そういうのを準備不足っていうんだ、覚えとけ。」
「はい、すみませんでした!」
「会社側で補完なんて、社長の保証があるわけじゃないんだぞ!俺があの場を収めるために出した方便だ。社長に迷惑がかからないよう徹底した後処理頼むぞ。」
「はい、全力で取り組みます。」
「お前、近頃調査で社長宅にまで泊まり込みしているらしいじゃないか。だからって仕事の手を抜く事は許されないんだぞ、わかってるとは思うが気合いを入れろ気合いを。」
桑山は不機嫌そうに早足で去って行った。いつも余裕で部下をまとめている桑山の機嫌を損ねてしまっただけでも失態だ。怜の調査も大事だが、身を引き締めなければならない。
会議のメンバー…怜も含む…に謝り、今後2度とこのようなことが起こらないよう皆で協力し合おうという話で終わった。
その日の昼は小雨だった。いつもの屋上庭園が使えない。
怜と庭園で並んで弁当を食べられないということは、会議での失敗に引き続き百合華の気持ちを低迷させた。
編集室で弁当を食べることにした。どちらにしてもデスクは隣なので、隣同士なのに代わりはないが、開放感が違う。
それに会議のことを皆引きずっていて、部屋の空気が重い。親友の夢子と目があっても、お互い悲しそうに頷きあうだけであった。
「穂積さん、はい。今日のお弁当です。」
「ありがとう。」
怜はいつも通りだ。落ち込みもせず、元気があるわけでもない。凪だ。
「あ、そうそう。倉木、連絡先教えてくんない。」
白身魚を掻き込みながら怜が言う。人の多い、編集室の中で。
「そういうのは小さい声で言ってもらえます?」
「なんで?」
「恥ずかしいじゃないですか!」
「は?」
少し感覚がズレているらしい。
しかし、怜の連絡先を知りたかった百合華にもちょうど良かった。これで今後いつでも連絡が取れるようになった。今更ながらだが、これは百合華にとってとても嬉しいことだった。
「なんで急に連絡先なんですか?」
「いや、急用が会った時のために…とか。」
「穂積さん、白身魚のタルタル、好きですか?」
「好きだけど?お前こそ急になんだよ。」
話をしている怜の左手の甲をこっそりと見た。そこには既に薄く白くなっているが、少し盛り上がった傷跡があった。