210. 織田夫妻・11
————植杉さんが言うには、朝、開門したら、門扉の横に体育座りしたやつが居て、すぐに怜が帰ってきたってわかったらしいんだ。
どうやってきたんだ?って植杉さんが聞いたら、「織田さんの財布を…」と。優子の金で電車に乗って綾谷市まで戻ったらしいんだ。
『第一報で織田さんとこに連絡入れたので、まだ詳しいことは聞いてないんですよ』と植杉さんは言ってたかな。そこから4人でコーヒーを飲みながら話をした。4人というか、実質話していたのは3人だけどもね。
怜は机に突っ伏して何も話さなかったよ。
話さなくても、大人3人はわかってた。ただ、蓮君とももちゃんの影を感じに来たかっただけなんだな…って。
しかし、怜は薬のおかげで身軽になった分、こういう突拍子もないことも出来るようになってしまったんだ。心配は杞憂に終わって良かったけどね。
でも、『心配かけるからこう言うことは、織田のご両親の許可をとってからしなさい。』と植杉さんがピシャリと言ってくれてね。怜は小さく頷いていた。
さて、困ったのは帰りだ。怜はまだ車に怯えていた。走行中の車を見るのは大丈夫らしいんだが、自分が乗るかも知れない車を前にすると、もう…駄目らしい。
仕方がないから僕は車で、優子と怜は電車で帰宅したんだ。
そうそう、この頃僕が乗っていたのが、ボルボ240エステートだよ。
————怜の身体が元気を取り戻していったから、カウンセリングも再開した。前に担当してくれた小林さんが担当してくれてね。でも最初はそんなに話は進まなかったみたいだけど。
小林さんに提案されたの。怜は高校に進学していないから、中学卒業後は車の部品を作る工場のようなところで一時期働いていたのね。
今後、ひきこもりを続けさせるのでもなく、忽然と消えることに怯えることも無く、何らかの形で社会参加させてみませんか?って。もちろん、本人の意志を第一に尊重して、だけど。
突然社員としてどこかで働くのは大変だし、夫の起業も誰かを雇えるほどまだ波には乗ってなかった。
とりあえずは近場でアルバイトでもどうかな、っていう、ケースワーカーの方のアドバイスで、近所のファミリーレストランでアルバイトに入ることになったの。本人は乗り気でもないけど、満更でもなかったわ。自分で自由に使えるお小遣いが欲しいのかな、そういう年頃だもんね。って、私はいつも悠長に考えてしまうんだけど…それが問題の始まりで。
結論から言うと、怜はそのファミレスのレジのお金を盗んで、ばっくれてしまったのよ。
幸い少額だったのと、店長が……最初は激怒されていたけど、謝罪と賠償金で示談にして下さって…。
怜は結局、クビにされたんだけど…まあ当然よね。どこへ行っていたかというと、近所の公園をブラブラしているところを見つけて、走って逃げるところを夫が確保したのよ。
盗んだお金はジュース代くらいしか使ってなくて。言ってしまえば、理由なき反抗よ。当てつけというか、お試しというか。
—————その時かな、僕が初めて本気で怒ったのは。怒りが大爆発して怒鳴り散らした。生易しいことなんか言っていられなかったんだ。
怜は確かに不幸な人生を送ったのかも知れない。けど、やっていいこととやってはいけないことがあることくらいわかる年齢だろうって、襟首握って言ったんだ。
そしたらあいつ、どうしたと思う。そのまま頭突きしてきたんだよ。鼻に直撃はしなかったんだけどね。それからは、怜がどう出るのかみたかったから僕は手を離した。そしたら僕の頬を殴ろうとなんども必死に手を振り回していた。
言ったと思うけど、僕は空手の心得があるから、怜の動きは丸見えだった。怜は悔しそうに僕に向かってきていたよ。
空を切る自分の拳に何を思っただろうね。どんなに当たらなくても、怜は諦めなかった。僕を殴るまでしつこかった。僕は挑発したよ。悔しかったら殴ってみろって。怜は声を裏返して叫びながら僕に突進してきた。
18歳の、ほっそい体の少年だ。僕はびくともしなかった。逆に怜を持ち上げて放り投げたんだ。
そしたら怜が泣き出した。天井を見上げながら、ヒックヒック言いながら泣いたんだ。
寝転んでいるから不憫に思った僕は、怜を起こしてやろうと右手を差し出したんだよ。そこからが感動だよ、倉木さん。
右手を出したその瞬間、僕の顔面に激痛が走ったんだ。一瞬何かわからなかったけど、あいつの長い右足が思い切り僕の頬に一発的中。僕はうめき声を上げてしゃがみ込んでしまった。
こっそりと見た怜の顔は、涙の筋残しながらも少し微笑んでやがったよ。