208. 織田夫妻・9
織田社長邸での生活に少し慣れてきた。生活ルーティーンも把握できてきた。これは百合華自身、招かれ、喜び、滞在させてもらっているからだ。
かつての怜にとっては全く違う感覚だっただろう。
出張から帰ってきた織田恭太郎は早速話し始めた。
————人は追い込まれると、何かをしようというバイタリティが枯れてしまうんだな。怜は病院でもらっていた薬は服薬していたけど…というか、僕らが管理していて飲ませていた。放っておくと飲まないからね。
服薬するのとしないのとでは、多少怜の表情が違った気がしたから、服薬は継続させていた。でも薬だけじゃ怜をコントロールできない。本人の意志は薬効より強く大きかった。
その本人の意志というのは…そう。【人生を諦める】ということだった。
怜はうちに来たその日に飛び降りた。死ねなかったことを悔しがっていた。そこからが闘いの始まりだよ。いかに彼を生かすか。体を張っただけじゃない、心でもぶつかった。受け止めた。それでも非常に難しかったんだ。
死にたいと思っている人間を、この世にとどめておくのがどれ程難しいか、倉木さん、君はわかるかい?
人には基本的に生存本能がある。朝起きて夜ねるまで、毎日同じことの繰り返しでも、生きて明日を迎えるのが当たり前なんだ。
その本能をベースに、三大欲求というものが存在する。食欲・性欲・睡眠欲と言われているあれだね。
怜には全てが欠けていた。
18にして、全てを放棄していたんだ。
そんな人間に、理屈で納得させられると思うかい?そう、無理だった。
僕や優子は、そんな怜の父と母でありたい、という気持ちは勿論どんな時でも持っていた。しかし怜の方は、そんなことはとっくに忘れてしまったような……関心を失ってしまっていたんだ。施設を出る頃は、少しは新しい親子関係を模すことに納得していたんだけどね…。
やがて怜は、食事も摂らず、風呂にも入らず、服も着替えず…以前の姿に戻ってしまったんだ。
病院では特殊な医療ケアで怜の命を助けることができた。でもうちは一般家庭だ。しかもその頃は僕らは企業の計画を立てている頃で金も無かった。
日に日に痩せていく怜を見て、心が折れそうになったのは本音だ。
どうしても無理だと判断した時、以前通っていた児童精神科の井村医師を尋ねた。「こうなる前に早く来ても良かったんですよ」と言われたなあ。
怜は反抗することもなく点滴を受けた。もう、虚無の世界の住人のようだったよ。目には光が無くなっていた。すべて受動的で……【無】そのものだった。
それから井村医師に服薬調整をしてもらったんだ。もう少し強い薬を、少し多めに処方してもらった。
1週間後にまた来てくださいと言われ、その時に状態が悪かったらまた入院も視野に入れましょうと言われた。
まるで僕らの努力を否定された気分だった。先生にはそんなつもりは無かったに違いないけどね。それは怜がうちに来て、まだ1週間も経ってない頃だと思う。
僕は井村医師に、服薬はさせるけど、人間関係を構築する時間が欲しい旨を必死に伝えた。でも先生は難しいと思うと眉をひそめたよ。退院だって、怜の意志を尊重して渋々許可したけど、その後…つまり退所後の生活のことを考えると心配だったって。
そりゃ難しいよな。18年間の怜の人生を変えようったって。どれだけ天狗なんだか、という話だ。
とにかく井村意志は自殺企図が怖いから、監視をしっかりするようにと言っていた。僕らは刃物を隠し、庭のレンガも外し、2階の窓ガラスも割れないように、開かないように、細工をした。勿論ベランダなどには入れないようにしたよ。
新しい薬を飲み始めた怜は、フラフラしては倒れていたよ。それ位強い薬だったんだと思う。すぐに効き目が出たって訳じゃないけど、何とか久しぶりに風呂に入れた。自力でというか、僕が洗ったんだけどさ。
怜は呂律が回らなくなっていたけど、何か声に出すようになった。ある日、僕が怜を支えるように座っていたら、怜は僕の膝に顔を乗せてボーッと天井を見ていたんだ。
それから、僕の目を見て言ったんだよ。
「お願いだから死なせてください。」