206. 織田夫妻・7
————初日からそう来るとは思わなかった。正直、盲点だったよ。蓮君とももちゃんの思い出は、確かに我が家には居ない。
怜は、【にじのゆめ】で蓮君とももちゃんの存在を感じながら、思い出を思い出しながら、苦痛ながらも一緒に居る安心感もあったんだろう。
それを突然リセットされるんだからな。しかも自分の意志でうちへ来ることになった訳じゃない。いわば、僕ら夫婦が望んだから、そして行き場が無かったから、仕方なくうちへ来た訳だ。
それにしても初日から「死んでやる」には、正直言ってショックを受けた。そこまでうちに来るのが嫌なのか、という気持ちもあったよ。勿論、ありがたく思えなんて事は考えない。
それでも、「嫌だ」という気持ちがあったとしても、「死んでやる」とまで言わせてしまう程なのか…と愕然としてしまった。初日にそれ言われちゃったらこれからどうすれば良いのか、と僕自身も混乱したよ。
————一般的に「死んでやるー!」ってよく聞く台詞だけど、怜の場合、本当に死ぬんじゃないかって…足が、手が、震えた覚えがあるわ。
人は、幼い方が順応能力が高いって言われているけど、怜はもう18。多感だし、繊細な時期だし、自我も育っている。
そんな中、環境ががらっと変わるんだもの。抵抗があって当然よね。
倉木さんだって、今、急に異動を宣告されたら戸惑うでしょう?新しい人間関係を構築し直さなければならないし、新しい仕事を覚えなければならない。ルールも、暗黙の了解も、何もわからない状況で1人ぼっちなんだから。
怜はそれを18で体験した。きっと、蓮君とももちゃんを置いてきてしまったという悔しさとか、複雑な思いがあったと思うの。
だって、うちに来るということは、何を見ても、何に触れても、蓮君やももちゃんを連想させるものは無いんだから。
強烈な孤独を感じたと思う。
————そして、まあ、麦茶を飲んで少し落ち着いて話ができるようになったんだ。「苦しいのはわかる。でも施設を卒業する、社会に出る、というのはこういうことなんだ。」というようなことを言った。
怜は自分の膝を思い切り叩いたよ。
「だから成長なんかしたくないんだ。俺だけ年をとるなんて、耐えられない。」
泣きながら怜はそう言ったと思う。その時期は…僕も優子も、怜にかける言葉が本当にわからなかった。
怜も慣れないが、僕らもまだ全然、怜に慣れてなかったんだ。
植杉さんや施設長なら、怜が落ち着く言葉を選べるのかもしれない。けど僕らはズブのど素人で、怜を落ち着かせるテクニックも無い。
とにかく時間をかけて、少しずつ信頼関係を作っていくしか無い……そう思ったんだ。
そしたらその晩だ。早速、事件が起こった。
もう遅い時間だった、23時位かそこらだと思う。僕や優子が寝る準備をしている時、ドスンという鈍い音が聞こえたんだ。大きな音だよ。
何事だ?何だ?何だ?と、部屋を見回しても何も無い。念の為、怜の部屋をノックしたが返事が無い。優子も一緒にいたよな?
心配だったから「入るぞ。」と言ってドアを開けた。
そしたら、窓が空いていてカーテンが揺れていた。
「まさかっ!」
と思って、急いで窓から下を見たら、怜が横向きに倒れていたんだ。両腕、両足を折り曲げる形で。
————夫が「怜が飛び降りた!救急車!」と叫んだんだけど、私はパニックになってしまって、窓から怜を見て震え上がってしまったの。
でも一旦怜の状態を確認した方がいいんじゃないか、って夫に言って、1階の掃き出し窓から庭に出た。その時夫は救急車を呼んでいたわ。
私は怜の脈を取ったんだけど、脈は正常だった。
そして幸いなことに、怜が落ちた場所は芝生だったのよ。もう少し位置が違えば、私が作っていた植栽のスペースのレンガに頭を打つところだった。危機一髪よ。
怜は気を失っていた。
病院へ運ばれて色んな検査を受けたけど、骨折もしていなくて、脳にも何も問題が無かった。怜は病院のベッドで目を覚ましたわ。最初は何事かわからなかったんだと思う。わかった瞬間に、「クソッ!」と叫んだのよ。