194. 20年前・5
1ヶ月は思っていたより早かった。
怜は1ヶ月のうち半分は情緒不安定で、残りの半月は、仲間や年少の子ども達と笑顔で話すこともできるようになってきた。
小学生がランドセルで登下校をする姿を見る度に頓服を飲んだ。笑顔で手を降って見送りながら、心の中では泣いていた。
男子ユニットは連日馬鹿騒ぎだった。怜を励ます為に敢えてやっているのかは定かではないが、怜が事件に遭う前からこんな感じだった気もする。
プロレスごっこに巻き込まれても、誰よりも背の高い怜は中々負けなくなっていた。
そして織田恭太郎が言った通り、鴨居があるごとに額を打った。
ここでの生活は、怜達がまだ幼かった頃恐れていたより、怯えていたより、ずっと平和で楽しい生活だった。
職員は皆笑顔で優しく、いざこざも沢山あったけれどそれを凌駕するような喜びも仲間達と分け合えた。
怜が病院から施設に戻ってきてから、田沼という職員が号泣しながら土下座しに来たことがあった。田沼はベテランの女性職員で、母弥生と怜たちの面談を担当していた職員だ。田沼もまた、自分の見識を過信していたことを猛省していた。
自分が「もう大丈夫」だと判断したから、弥生と子ども達は施設から出て行ったのだ。そしてすぐに、事件が起こった一報を受けた。
怜は田沼に、「田沼さんのせいじゃない。」と言った。誰かのせいじゃない。蓮とももを救えなかったのは、この俺だ。その考えは中々変えることができなかった。
6月に入り、怜の誕生日が近づいた。誕生日に施設を出ることにしている。
怜は上原施設長と理事長である植杉に頼みごとがあった。
「誕生日会とか、おめでとうとか、そういうのいらないんだ。」
怜は言った。
「自分だけ年をとるのが、こんなに辛いのは初めてだ。だからケーキとか歓声とかは…欲しく無いな。」
「解った。心配するな、ごく普通の1日にしよう。」
植杉が言った。
「そしてごく普通に、この園を出ていく。それでいいかな?」
上原施設長も言った。
「お願いします。」
怜は頭を下げた。
誕生日の前の晩、怜は眠れなかった。
自分の誕生日が来るのが怖い。
蓮とももの年齢のカウントは止まっているのに、自分の周りの時計だけが回っている。1つ大人になることに罪悪感と嘔気を感じたまま朝まで眠れなかった。
18歳初日の朝が始まった。
誰も何も言わなかった。小さな子どもまでも、にこにこしてくれるだけだ。
その配慮が嬉しくて目頭が熱くなった。
普通に朝ごはんをかっ込み、幼稚園と学生組と心の中でさようならをしながら見送り、残った他の子とも特段会話はしなかった。
その時植杉に呼ばれた。
「怜、ちょっと付き合えよ。ほれ、こっち来て。」
機嫌良さそうに笑っている。
植杉についていくと、面談室だった。なんで敢えて、弥生と面談していた場所を選ぶ。怜は少し苛立ちを感じた。
植杉も敏感な男だ。怜の苛立ちは背中で感じているだろう。
「どうしても、また顔出しに来て欲しいんだ。だから、怜にとって嫌な場所を大掃除して欲しい。」
「大掃除?」
「そうだよ。嫌な思い出を、ヘンテコな思い出に変えていくんだ。おお、来た来た。今日は織田夫妻も呼んだんだ。勝手に呼んで怒った?ははははっ。」
植杉は自分のペースで話を進めていく。
「さあ、さささ、織田さんたちも好きな席座って。怜はどこがいい、好きな場所選ぶんだ。」
怜は、悩んだ。
1つ大人になった兄の姿を、弟と妹に見せたかった。
怜は、弥生との面談の時に座った席を選んだ。植杉が少し眉を動かしたのが見えた。
怜の両脇に織田夫妻が座った。
植杉はその正面でニコニコしている。
何が始まるのか、と思ったら、職員が飲み物を4人分運んできた。
「織田さん、コーヒーお好きですか?ああ、よかった。ホットですけどね。ミルクと砂糖もありますよ。これはね、職員が丁寧にハンドドリップしたコーヒーでね、豆も時間をかけて厳選したものを使用しているんです。職員にはパプアという品種が人気でね……」
植杉のうんちくが始まった。
怜の前にもコーヒーが出された。
怜はコーヒーが嫌いだ。前に缶コーヒーを飲んで嫌いになった。
「植杉さん、俺コーヒー嫌いって知ってんだろ。」
「いやいや、怜君。君はまだ本物のコーヒーを知らないからそう言えるんだ。砂糖とミルクは入れてみる?その方がマイルドに楽しめるけど。」
「じゃあ。」
「入れ過ぎるなよ?何事もほどよくだ。ねえ、織田さん。」
「最初は砂糖はスプーン2杯くらいでどうかな。あとは調整してみるといいわ。」
優子が言った。
怜はそれに少しミルクを足してみた。
「じゃあ、コーヒーを飲みましょう。偽物じゃなくて本物のコーヒーです。どうぞ。」
植杉は嬉しそうだ。笑みを絶やさない。
怜は何となく嫌な気持ちでカップを持ち、そっと口に運んだ。
「…うまい。」
「だろ?そう言うと思ったんだよ。今日は特別に最上級に丁寧に淹れるよう頼んでおいた甲斐があった。」
「俺が知ってるコーヒーの味と全然違う。」
怜は何度も口に運ぶ。
「そうだ。思っていたことと全くちがうことは、起こり得るんだよ。怜。」
植杉の顔は深刻なものに変わっていた。
「怜はその席を選んだ。勇気がある。あとはこれからの人生だ。人との関わりを断つな。人と関わる勇気を持て。俺からの最後のお願いがある。」
「なんだよ。」
怜はコーヒーを置いた。
「そこの織田さん夫婦を、お父さん、お母さんだと思ってくれないか。」
「だから俺は親はもういらないって…」
「思ってくれないか。頼む。少しずつでいい。思えるまで何年かかってもいい。怜を見守ってくれる親身な人が、怜の側にいてくれると思うだけで俺は安心できるんだ。頼む、この通りだ。」
植杉は机の上で頭を下げる。
「おれには両親はいない。いらない。でも……」
怜は織田恭太郎と織田優子の顔を見比べた
「この人たちのことは好きだ。」
「ありがとう」「ありがとう」
織田夫妻が言った。
「親だって思えるかはわからない。でも、思たらいいなって少し思ってる。」
「思えるさ。さあ、さあさあ、コーヒー皆で飲みましょ。怜、本物は違うだろう。」
「ああ、違うね。本物は、違うね。」
コーヒーを飲んだ後、何気なく怜は織田夫妻と施設を出た。
植杉は門まで見送ったが、右手を上げただけで、施設へ帰っていった。
落ち着くまで、織田夫妻のところへ泊めてもらう算段となっている。
(さようなら、【にじのゆめ】)
(ありがとう、【にじのゆめ】)




