192. 20年前・3
「では、今日で退院となります。退院後も少なくとも月1回は外来受診してくださいね。その分のお薬出しておきます。穂積君、退院おめでとうって言われてもしっくり来ないと思うから私からは、退院、ありがとう。」
「ありがとう?」
「あなたがここで前へ進んでいく姿を見て私も色々学ばせてもらいました。退院はゴールじゃなくて、これからが大変かも知れない。
でも、あなたは病院という場でこの日を迎えることができた。そのことを誇りに思って欲しいです。」
担当主治医の井村医師は、残りの1ヶ月を施設で過ごしたいという怜の意志を汲んで、17歳と11ヶ月で退院を許可した。本当はもう少し様子を見たかったが、怜の人生だ。自ら選択していくことの連続が待っているだろう。その一歩として退院を承諾したのだった。
「怜君、君が笑顔を見せてくれた日のこと、忘れないよ。俺からも、ありがとう。」
担当の看護師森崎からも感謝された。怜は退院が近づくにつれ森崎との仲も親密になってきた。とはいえ下ネタが好きな森崎の話には辟易することが多かったが。
カウンセラーの小林も居た。
「こめかみの恨みは今日をもって晴らされた。これからの生活も、初めてボールを拾ったときのようにシンプルにね。ありがとう。」
病院玄関には、植杉と織田夫妻が迎えに来ていた。
退院の準備をしていた時、瑛斗が走ってやってきた。
そして怜を抱きしめた。
「お前は自分に未来が無いって思ってんだろ。でも生きろ。俺の言葉を忘れるな。生きろ。それでまた、会おう。」
「瑛斗、お前も早くシャバに出ろよ。」
2人は初めての握手をした。
皆に玄関で見送られて、怜は退院を果たした。植杉の運転で、児童養護施設にじのゆめへと向かおうとした。
ところが、怜が動かなくなった。目の焦点が合わず、震えだした。
「どうした?怜君」
織田が声をかけると、怜は腰が抜けたかのように地面に座り込んでしまった。そのままブルブル震えている。
「怜君、不安時の頓服、持ってるでしょう。服用してみたら?」
井村医師が言う。
優子が薬が詰まった袋の中から【不安時 頓服】と書かれたものを探し出し、錠剤を怜に渡す。
看護師がすぐに水を持ってきて、怜は錠剤を服用した。
「穂積君、わかる?私のことわかる?」
「井村先生…」
「今どんな気分?」
「怖い……」
「車ね?」
怜が首を縦にふる。首にも汗がべっとり浮いている。
医療関係者以外…植杉や織田夫妻は何がなんだかわからなかった。
井村は一旦、病院内に植杉と織田夫妻を呼んで言った。
「穂積君は、車で事故に遭っています。簡単にいえば、車に対する拒絶反応です。」
「じゃあ、怜は車に乗れないんですか?」
「少なくとも今はやめてあげた方が彼のためです。」
「今日は電車で帰るという手段がある。でも日常で車無しで生活するのは…この地域では難しい。これからやっと免許を取れるというのに…。それに、本人の自立にも支障が出てくるのでは…。」
織田は悔しそうに言った。
「いつ頃になったら、拒絶反応は無くなるんですか?さっきの頓服を飲んだら乗れるようになりますか?」
植杉も驚いた様子で、井村医師に尋ねる。
「いつ反応がなくなるかは、個人差があります。そのための治療もあります。必要と判断されたら遠慮なく当院にご連絡ください。頓服はあくまでも一時的な不安を抑えるためのものです。車に乗れるようにする薬はありません。長い目で見た方が良いでしょうね。」
(それもそうか…車の中で、怜は最も憎い人物に最も大事な弟と妹を殺されたんだ。)
植杉はまた、透明なナイフで自分の胸を刺した。
その日は植杉は車で退院の荷物を運び、織田夫妻と怜は最寄駅からにじのゆめ方面へ行く電車に乗り、そこからは歩いて施設へ戻ることにした。