191. 20年前・2
病院での入院生活も軌道に乗ってきた。クリスマスや正月のイベントごとには全くの無関心であった怜だが、カウンセリングは毎週1回通うようになっていた。
カウンセラーの小林は相変わらずソフトボールを持参していた。怜がカウンセリングルームに来る度に、最低でも1度は軽く怜に投げるのだ。しかし怜はキャッチしてくれることは無く、ボールを見ることもなかった。
ある日怜が言った。
「小林さん、俺にキャッチさせるのは無理だよ。」
「なんで?」
「俺は今までずっと、誰かとスポーツをしたことがないんだ。デイケアでもスポーツはしていない。どうしたら良いかわからないんだ。だからもう無駄なことするなよ。」
「したことないからできないってこと、ないんじゃないかな。」
「は?」
「君は頭がいい。今は気持ちの不安定さの方が勝ってる。だいぶ安定してきたけどね!すごいことだよ。頭がいい君は、物事を先に読んでしてしまう。そうしないと生きてこれなかったからというのもあるかも知れないね。でもシンプルにいこうか。ボールを拾う。僕に投げる。当ててもいい。それだけだよ。」
「したくないんだ。」
「無理にしろとは言わないよ。君の自由だ。でも1つだけ言わせて欲しい。スッキリするぞ。」
「………。」
怜は、ソフトボールを手に取った。不思議な感触だ。しばらく両手の中でクルクル回して感触を楽しんだ。
カウンセラーに一歩近づく。怜の悪戯心に火がついた。もう一歩近づく。
「……近過ぎないか?」
カウンセラーが言う。
怜はもう一歩前に出る。
「もう少し離れようか?」
カウンセラーの額に粒が浮く。
怜は思い切り振りかぶって、カウンセラーのこめかみにクリーンヒットさせた。
「痛っ!!!!!!!酷い!」
「スッキリ、したよ。」
怜が窓の外を見つめている。退院が近づいている…小林は少しだけ切なくなった。
翌日から小林はこめかみの青あざはどうしたのかを同僚たちに聞かれる運命にあった。
その頃、織田恭太郎は足繁く児童養護施設【にじのゆめ】を訪ねていた。植杉との対談のためだ。
怜は今年の6月には満18歳を迎える為、施設を出なければならない。織田恭太郎と妻の優子は、その後の怜の両親の代わりになりたいという意向があった。
優子が怜の母親、弥生と友人だったことは、混乱を避ける為に怜には告げていない。告げるつもりもなかった。だがにじのゆめの職員には説明をしておいる。
織田夫妻が怜の両親代わりになりたいという旨は既に怜には通っている。しかし怜は断った。自分に親は必要無いし、未成年後見人という制度も自分には必要無いと言い切った。
しかし、公的制度に頼らずとも、父母のような関係性を持てるのならば、施設を出てから何かあった時にサポートできるのではないかと織田夫妻は考えた。
施設の理事長である植杉も、怜が施設を出た後のことは心配の種であった。病院からは、退院日は近いと聞いている。このまま退院して、また怜が【死】の世界に取り憑かれてしまった場合、自分はそれを食い止められるだろうか。
常に見守ってくれる人が周囲に居た方が安心だ、という点で、植杉も、親子を模した関係作りをするのは悪く無いという感触があった。
何とかして怜を納得させたい。
退院前までに、織田夫妻と植杉は面会を続け、怜本人が納得するまで話し合うことで合意した。




