188. 21年前・16
怜がチューブを外さなかったことを、井村医師や看護師たちは褒めてくれた。別段生きたい気持ちが生まれた訳では無いことを勘違いして欲しくなかったが。
その日は忙しかった。
カウンセリングが午前中にあった。点滴を持ち運ぶスタンドを看護師森崎が持って、他の看護師が車椅子を押して、カウンセリングルームへ行った。森崎は笑顔で怜に何か言っていたが、怜の耳には入ってこなかった。
カウンセリングルームで突っ立っていると、カウンセラーの小林は突然、
「キャッチボールしたことある?」
と聞いた。
そして笑顔でソフトボールを怜にそっと投げてきた。
ボールは怜に当たり、虚しく床を転がっていた。怜は無反応だった。
「よかったら、ボールを取って僕に投げてくれないか?」
よくない。こんな時に遊んでる余裕なんて無い。
怜は自分で点滴のスタンドを持って、カウンセリングルームを出て行った。
(初回は、失敗……っと。)小林は記録にそう書いた。
昼食はいつも通りでてきたが一口も口をつけなかった。しかし、チューブを差し込まれてから、なんとなく身体的な動きが軽くなってきた気がする。
午後はまず、織田恭太郎という人と、もう1人その妻らしき女性が面会にやってきた。前回恭太郎が持ってきた花束より豪華で、フルーツやゼリーも持ってきてくれた。
「君のことを思っている人が、ここに居ることを知っていて欲しいんだ。君が笑顔を見せるようになるまで、僕らは面会に来たいと思ってるんだけど、いいかな?」
恭太郎が言った。怜は無視した。
妻らしき人物は物静かに微笑みながら怜のことを見ていた。
次に面会にやってきたのは、いつもの植杉だった。毎日怜に会いに来る、児童養護施設の理事長だ。仕事は暇なのだろうか。
しかし、今日は椅子に座って、何やら深刻そうな空気を醸し出している。
「怜。知ってると思うけど、うちの施設は原則、18歳までしか居られないんだ。怜はもう1年を切っている。施設でも嫌な思いをしたと思う。でも最後は、良い思い出で卒業してもらいたいんだ。怜、戻って来て欲しい。僕は怜がにじのゆめを笑顔で卒業することを毎日願ってるんだ。」
植杉の目は潤んでいた。懇願しているように頭を下げている。両拳は膝の上で強く握られていた。
ここを退院したら、にじのゆめが帰る場所なのか。
たった1人で帰って、笑顔で卒業だなんて。
怜はまだ、未来のことを想像する余裕が無かった。
今の悲しさ、苦しさで精一杯だった。