176. 24年前・4
怜は中学に進学した。小学校にまともに通わなかった割には学校の成績は良かった。蓮も元気に小学校に通っている。ももはだいぶ言葉も覚えて生意気も言うようになった。施設では年齢の枠を超えての交流が普通にあったので、ももにはいつも会っていた。怜にとってかわいい自慢の妹だ。
怜が中学2年生に進学した頃に事件は起こった。
突然、行方不明であった母親、弥生が施設に現れたのだ。
とは言っても、施設は簡単に門扉を開かない。すると弥生は施設を大きな声で罵倒し始めた。
毎日続く弥生の罵声が耳に届く度に、怜と蓮は耳を塞いでいた。
頼むから消えてくれ……
心の底から願った。
「どうにかするから安心してね…」
職員も気を遣ってくれている。
「絶対に入れないで。」
蓮が言った。
怜も蓮も、施設に入って2年程経ったくらいから喋るようになった。
折角慣れてきた施設生活を、また弥生の気まぐれで破壊されるなんてまっぴらごめんだ。怜は眠る前、明日は来ませんようにと願ってばかりだった。
ある時ぴったり来るのがやみ、喜んでいた所、今度は違う方向から攻めてきた。キャラクター変更だ。
「どんなに謝っても、開けちゃだめだ。入れたらだめだ。」
「わかってるよ、怜。我々職員も充分警戒してるからね。」
しかしその職員の言葉も虚しく、弥生は施設侵入に成功した。人の心を魅了するスキルをあいつは持っている。今回も誰かがほだされたのだろう…。
弥生が施設に入ったという知らせを聞いてから、絶望ばかりを怜は感じていた。
蓮にしてもそうだったらしい。あいつは、ゲームを楽しんでいる。ゴールは怜と蓮とももの奪還だ。
しかし、田沼という職員が週1で弥生の相手をすることになったという報告を聞いて、少しほっとした。そのうち諦めて帰ってくれると、きょうだいは信じるしかなかった。
田沼職員や、施設長、他の職員から、弥生がいかに変わったかを何度も聞いた。
ある時は職員と面接形式で、ある時は怜たちの部屋でリラックスしながら、弥生が今までのことを反省し、今後新しい人生を再開したいと思っていることを伝えてきたのだ。
そんなの嘘だ。
あのおんなが、そんなこと、できるはずがない。
「そんなこと信じたらダメだ!あいつは嘘しかつかない!!」
ある日怜は状況説明に来た男性職員に叫んだ。
すると職員は感情をあらわにした。
「信じるか信じないかは確かに君たちの問題だ。でも、母親に『あいつ』は無いだろう。それに嘘ばかりだとどう証明できる?本当に変わったのかも知れないじゃないか。そっちの可能性は少しも信じられないのか?」
「信じられない。信じたらダメだ。絶対に信じたらダメだ。」
「そうやって、怜に思わせることを弥生さんはやってきた。それは確かに罪だと僕は思う。でも人は変われるんだよ?僕は沢山、変わってきた人を見てきた。現実に、君たちきょうだいだって、変化しているじゃないか。人は、変われるんだよ…。」
(それでも信じたらだめだ…。)
話にならないと思って、怜はその後、職員の状況説明は話半分で聞いていた。
すると、田沼がやってきて、弥生と直接会うことを打診してきた。とんでもない。妙なことを言い出すおばさんだ、と怜は思った。
その日からは職員の態度は、怜と蓮が弥生に安心して会えるように説得する日々となった。信じたら負けだと思っていた怜の感情が少しだけ揺さぶられた。大人の全員が、弥生は変わったから安心だと言うのだ。
面会日誌のようなものも見せてもらった。面会して1日目から、もらった当日までの会話の記録が詳細に載っている。田沼が記録していたらしい。
それを何度も読み返した。蓮にも見せたが、まだ難しい漢字があり、何度も教えてやらなければならなかった。
面会日誌の内容を信じるとしたら……もしかしたら安全なのかも知れない。本当に変わったのかも知れない。そうじゃなかったら、あいつはこんなこと言わない…という言葉の羅列だった。
「れい、おれ母さんに会ってみたい……」
蓮のその言葉で、会うことになった。面会時の職員も1人増やして、他の職員も見守るから大丈夫だと施設長は言った。
そして久々に会った弥生は見た目が真逆になっていた。これは真の姿か偽りか。14歳の怜には見極められなかった。
弥生は
「会いたかった…」
と涙をぬぐいながら、怜と蓮を抱きしめた。そして面談室の床で土下座して
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
と泣きながら謝罪を繰り返した。怜と蓮は文字通り固まってしまった。これをどう受け止めて良いのかわからず、頭が真っ白になっていた。
優しい母さんになっているのか…?一瞬頭をよぎったが、怜はその考えを振り払った。そんなことあるものか。でも、ほんの少しだけは、嬉しかったのは事実だった。