132. 夕涼み会
メモ帳を眺めながら怜のことを思った。生きることしか考えられない状況で育ってきた人間の死生観は、やはり一般とは違ったものに変化してしまうのが常なのだろうか。まるで怜のように。いつ死んでもいい、というように。
アイスコーヒーを飲みながら、百合華は昨日の出来事をメモ帳に記録し始めた。
スナック【環】の和子ママの話。
ママの話は怜の実母、弥生の話であった。16歳にして怜を出産した弥生。外国人に溺れてその後、蓮、ももを出産。それぞれ父親は違い、不在である。
その弥生が、子ども達が児童相談所の職員に保護されてからも、ホスト遊び、借金、風俗に闇金、そして病気。追い詰められた弥生は、施設にいる子ども達を『絶対取り戻す』と言っていた……と。そこまで聞いた。
絵に描いたような転落人生だ。
弥生自身も実の父母から虐待されていた話は、以前飯島夫妻から詳しく聞いた。弥生も被害者であったのだ。そして残虐な加害者になったことを石黒恵子から聞いたのだ。その頃のメモを見ると生々しい描写に気分が悪くなる。
誰が1番の犠牲者なのか、などわからない。
どこかで歯車が狂ってしまった、そんな家族の物語なのかも知れない。
今日施設の誰かと話が出来れば…。透明な部分が補完されていくと信じるのみだ。
百合華は昼までメモを片付ける作業を続け、ランチを注文した。
軽食を終えた百合華は喫茶店を出て、怜たちが暮らしていた施設のある綾谷市へ向かうことにした。時間は13時。お祭りまではまだ時間がある。
夕涼み会が行われるのは、地域の大きな病院だ。場所は既に確認してある。
時間があるので、百合華は怜たちが暮らした児童福祉施設【にじのゆめ】に向かうことにした。
にじのゆめの前に停車すると、施設の中からは子ども達のかわいい声が聞こえてくる。時折、職員であろう大人の声も混ざっている。
何気なく施設内を覗いてみると、1人の男が空を見上げている。今夜の夕涼み会へ向けて、天候を確認しているようだ。
百合華がスマホを見ると、天気予報では晴れのち雨。それは確かに心配になるであろう。男は両掌を空へ向けて不安そうな顔をしている。
そして、建物内に入ろうと身を翻した際、百合華の存在に気が付いたようだ。建物に入ろうとする足を止め、百合華を不思議そうに見ている。
百合華は一礼をしてその場を去ろうとしたが、男が近づいてきたので男の方に身体を向けた。
「雲が出てきましたね…雨降るのかな。」
男は言った。
「降水確率は30%と出ていました。」
「…そうですか。ところで、何か用でもありましたか?」
「あ、いいえ。ああ!このポスターの夕涼み会、今日ですね。関係者以外でも参加できるんでしょうか?」
正門横に貼ってあった夕涼み会の案内を見て百合華が尋ねた。
「もちろんできますよ。」
60代半ば位だろうか。柔らかい印象の男は笑顔で言った。無精髭が似合っている。
「ただ、雨さえ降らなければねえー…」
右手を額に当て、空を見ている。
「ちょっと位の雨でしたらやりますから。もし来られるのであれば、是非。では。」
男は踵を返して建物の中へ入って行った。
雨が降ってしまっては、職員との接触のチャンスが無くなってしまう。子ども達の目を見ることもできない。
雨が降らないことを祈っていた百合華だったが…
結局雨は降らなかった。
夕涼み会会場の病院駐車場は、沢山の人で溢れていた。
時刻は17時。お祭りはまだ明るい夕方から始まっていた。
百合華はのんびり歩いて祭りを見て回った。子どもの頃を思い出す。
金魚すくい、わたがし、射的、花火…。盆踊りは子どもも大人も混ざって綺麗な音頭を奏でていた。
見ているだけで楽しかったが、子ども達はもっと楽しそうだった。小さな子の甲高い声、大きな子のちょっと成長した声の歓声があちこちから聞こえてくる。人々の合間を走る子、たむろする子ども達……皆明るい表情をしていた。百合華は安心した。安心できる施設であることが子ども達の目から伝わってきたのだ。
祭りは最後に小さな打ち上げ花火を上げることで終わりを迎えた。皆が各々拍手をしている。
花火を上げていた広場に立っていた百合華は、職員らしき人が居ないかを探した。何人か居たが皆片付けが忙しそうで、声をかけにくい。
周りを見渡すと、夕涼み会の幹事達だろうか、病院関係者と施設関係者の代表らしき人々が談笑していた。
その時、見覚えのある顔がその中にあることに気が付いた。
満面の笑みで、他の幹事と思しき人達と話している無精髭の男こそ、ここへ来る前に施設で声をかけてきた男だった。
(あの人達の会話が終わったら、男性に声をかけてみよう)
晴れてよかったですね。そんな感じで声をかければ警戒されにくいだろう。