123. 怜自宅
2人は怜の自宅へと向かった。1階の部屋に入る。
前回来た時は、キッチンの方を見る機会がほとんど無くて気がつかなかったが、小さなキッチンカウンターの左手奥に、無数の酒やリキュール類がバーの様に並んでいた。
百合華は酒などについてはほとんど詳しくない。ただ美味しいお酒を紹介してもらって、気に入ったら飲むという感じだ。居酒屋でヒレ酒を飲むこともある。
怜が言った。
「簡単に作れるうまいやつがあるんだ。お前でも作れるよ。その名もゴッドファーザーだ。」
ディサローノと書かれた【アマレット】というブランデーとメーカーズマークと書かれた【ウィスキー】を氷を入れたロックグラスに入れ、かきまぜる。
「ただこれだけだ。飲んでみ。」
怜は自分のを作りながら、百合華に片方を渡した。
2人でグレーのソファへ移動する。
男女2人きりで酒を飲んでも何も起こらない自信しかない。切ないことに。
「ん〜、なんて表現したらいいんでしょうか、美味しいです。甘いですね、社長が飲んでそうな見た目ですし、ゴッドファーザーって社長っぽいですけど、これ女子向けでもありますね。」
「そうだろ?うん、うまい。」
「やっぱり色んな種類のお酒置いてるんですね。」
「休みの日はシェイクの練習とかもしてたから。」
百合華は怜の美しいシェイクを思い出した。——穂積怜。最初は名前しか知らなかった美しいバーテンダーと、今このような位置不明コンビになってしまうとは想像もつかなかった…。
「ゴッドファーザー美味しいです。」
「アブサンっていう酒を知ってるか?」
「いえ、美味しいんですか?」
「いや、禁断の酒だ。アルコール度数70%前後。薄めて飲む場合は、アブサンスプーンという穴の開いたスプーンの上に角砂糖を置いて、それをグラスの上に橋渡しにする。そして角砂糖をアブサンに浸して火をつけるんだ。それに水を注いて消火して、アブサンスプーンでよく混ぜてできあがり。幻覚なんかが出て禁止されていた時代もあったけど条件付きで解禁された。多くの芸術家を魅了した酒だ。
ちなみにアブサンの名前の由来はフランス語の『存在しない』という言葉らしい。」
「お酒の話になると饒舌になるんですね。アブサン…知らないなあ。」
「今まで知識を披露したことは無かったからな。アブサン、飲んでみるか?」
「え、あるんですか?」
「無いよ。好みの味じゃ無いんだ。」
百合華はくすりと笑った。
「ところで怜さん、バーテンダー時代、なんであんなに無愛想だったんですか?」
いつの間にか、そんなことを率直に聞ける間柄になっていた。
というか、どう反応されても一々傷つかない免疫がついてきたように思う。
「【酒】が嫌いだったのと同じだ。仕事として割り切っていたけど。俺には愛嬌が無いからサービス業は無理だって社長に言ったのに、半ば無理矢理。」
———今の怜の発言は恐らく、大事な発言だろう。しかし全て、慎重に整理して考えなければ百合華には理解ができなかった。
沈黙という名の時間をもらおう。
【酒】が嫌いだったのと同じだ…というのは先程話していたように、思い出の中の【酒】が嫌いだということだろう。
仕事として割り切っていた…というのは、本当は過去の親たちと同じ水商売に従事することに抵抗があったけれど、割り切っていたということだろうか。
そして、サービス業は無理だって社長に言ったのに、半ば無理矢理…というのは?
「社長って、織田社長ですか?」
極力動揺を悟られないように聞いた。
「そうだ。この話はまだお前の知らない分野だろ。」
「…バーテンダーの仕事は、織田社長が半ば無理矢理…という経緯があったんですか。正直驚いています。」
「俺は、本当に『無理だ』と言ったんだけどな。それでも働けと言われてやむを得ず働いていたから。シェイキングを覚える方が笑顔を覚えるより余程簡単だった。」
まだまだだ。まだまだ、怜のことを理解できていない。
「でも怜さん、時折いい笑顔見せてくれるようになりましたよね。」
「そうか?よくわからないけど。」
「もう、無愛想ゾーンからは一歩、踏み出せたんじゃないですか?」
「規模が小さいな。」
「穂積怜としては大きな進化ですよ。」
「そういうお前も、変わってきた。」
「そうですか?」
「勘違いばかりのプライド女からは一歩、踏み出せたんじゃないか?」
怜は煙草に火をつけながら笑って言った。
「実は私も思うんですよね、なんであんなに肩肘張ってプライドにこだわっていたのかって。あれ、自信の無さの裏返しなのかなって最近思うようになってきているんです。怜さんの経歴を知れば知るほどに、自分が情けなくなりますよ。」
「倉木百合華としては、大きな進化じゃないか。」