120. 終業後
今日は残業は無い……無いはずだ。今から残業の司令が桑山から出たら舌打ちをしてしまいそうだった。
終業が近づくにつれ血圧が高くなっていくのを感じる。時々ちらっと見る怜の表情は全くの無表情だったが、百合華はおそらく誰が見ても「いいことでもあった?」と聞かれるような顔をしていただろう。
「百合華。なんかいいことでもあった?」
笑うくらいのジャストタイミングで夢子が聞いてきた。
「夢子、さっきはフォローありがとうね。おかげで気分転換できて、元気になりました。」
「それだけ?なんか浮かれてる気がするんだけど。」
「夢子、お願いだから声のトーンを落として。」
百合華は夢子の腕をそっと掴み、部屋を出た場所でレストランに誘われたことを話した。
「しかもイタリアン?さすがは穂積怜。おしゃれだわ。」
「信じられない、付き合っても無いのに。これも桑山さんの仕業なのかな。」
と言いつつ、百合華は笑顔が止まらなかった。
「私もいつか、桑山さんと【フレンチ】行くんだ。付き合ってないけど。」
2人同時に笑った。
「楽しんでおいで。くれぐれもお店で派手な喧嘩はしないでね。」
「気をつけます。」
帰りの準備をして、鞄を肩にかけ、あとは怜の準備が整うのを待つだけだ。怜の横に立ったまま、今か今かと待っている。
「これでよし。」
業務の最終チェックが終わったようで、怜はラフなジャケットを羽織って「じゃあ、行こうか。」と言った。
今日の怜は、水色のワイシャツに、黒のズボン、そして紺色のジャケットだ。
鞄は持っていない。
「あれ?穂積さん、鞄は?」
「いつも持ってない。」
怜は、ジャケットの右ポケットからスマホを、内ポケットから折りたたみ財布を出した。
「書類とかは……?」
「あれば持ってくるよ。」
クリアケースの【鞄】を机の下から出して見せた。100均で売ってそうな持ち手のついた白くくすんだクリアケースだ。
百合華はくすくすと笑った。そういえば以前持っていた。
でも、怜が持つと何でもサマになるのが常なのだ。例えそのケースが100均だとしても、1000円以上に見える。
「じゃ、行くか。」
2人で駐車場まで行き、いつものボルボに乗った。
このボルボも謎だ。以前「社長のお下がりだ」と怜が言っていたが、どういうことだろう?いつかはこの謎も解けるのだろうか。
怜の言っていたイタリアンレストランに着いた。イタリアンといえばオリーブなのだろう、店の前にはオリーブのプランターが何個か置いてあった。
しかし時間はまだ6時前。ディナーには少し早い。
「でも早く行った方が良い。」
と怜が言うので、それに従った。
大きなマンションの1階、西の隅にお店は入っていた。オーニングには【トラットリア・ボーノ】と書いてある。
店の外の立て看板にはたくさんの【今日のメニュー】が書いてある。
店内に入ると満席だった。
「予約しといて正解だったな。」
「それに、早く来て正解でしたね。」
店員が2人用テーブルに案内し、メニューを2人分渡した。
「ご注文がお決まり次第、お呼びください。」
店員は忙しそうに周囲の客の食べ終わった皿を片付けながらキッチンへと入って行った。
「すごい盛況ですね。」
「すごいから、この間入ってみた。」
「おひとりで?」
「そうだ、悪いか。」
「いえいえ。それで、凄く美味しかったんですね〜…。店内もおしゃれ。イタリアにいるみたい。」
「メニューを決めるぞ。」
「はい。」
【シチリア産オリーブオイルとレモンのヴィネグレット】
【魚介ラグーソースバジリコ風味】
【イタリア産の生ハム、 サラミ、モルタデッラ…】
————わからない。
「あのー、何書いてあるのかわからないので、穂積さん決めてもらえます?」
「俺もわからん。」
「でも前来たんでしょ?」
「オススメのをって頼んだ。」
「じゃあ、今日も、【本日のオススメ】でいいんじゃないですか?」
「そうするか。」
注文したが、満席のため時間がかかりそうだ。見る限りシェフは1人。ホールが1人。人件費を節約しているのだろうか。
時間がかかりそうな分、怜と話す時間も長くなる。
店員に【本日のおすすめ】を聞くと、何とかのボロネーゼと、何とかのマルガリータと、他にも何とか言っていたので、
「じゃあ、それで…。」
と怜が言った。
「お飲み物はいかがしましょう。」
「白ワインを。」
「かしこまりました。」
「穂積さん、今日車じゃないですか?」
「俺は飲まない。お前の分だよ。」
「ああ、ありがとうございます。」
「この間食べた時、これは白ワインが合うだろうなって思ったんだ。」
それを有無を言わせず注文するところが怜らしい。
そして、怜のおすすめを百合華の為に注文してくれたことを、少し照れ臭く感じた。