114. 石黒宅・2
そこは雨戸を閉めきった暗い部屋だった。天井からぶら下がる裸電球の白熱灯だけがこの部屋を照らしている。
白熱球の下には大きなステンレスの灰皿。驚いたことに灰皿の中は、溢れ出さんばかりのタバコの吸い殻が詰め込まれていた。ニコチンやタールの刺激臭が部屋中を漂っている。
しかしそれ以外は整理整頓された部屋という印象であった。ただし畳はまっ茶色だ。
吸い殻が置いてある円卓の周りにせんべい座布団が1つ置いてある。石黒は押入れを開け、もう1つのせんべい座布団を対面に置いた。
「座んな。」
「失礼します。あ、これ大福です。」
「あたしゃここの店主と知り合いさ、昔の上客だよ。言われなくてもこの大福が旨いのは知ってるよ。」
「そうでしたか、以前のお客様だったんですね…。ところで、まず、ドアを開けていただき、本当に嬉しかったです。ありがとうございます。」
「あんた石黒ってどこで名前聞いたんだい。」
吉田不動産からは内密にと指示がでている。
「あちこち調査していたので、どこで聞いたか失念してしまいました、申し訳ありません。」
「あたしゃこの通りの幽霊って噂が立ってんだよ。夜坊主たちが肝試しに来たときゃあ、ギャアアアと叫んでやった。覗いてみると小便ちびったり腰抜かしたり、面白いのなんのって。」
石黒は顔を含め全身がシワシワだった。もう80代かと思えるが、実際はもっと若いのかも知れない。苦労が彼女を年老いて見せているのかも知れない。
髪の毛は薄く、毛染めもせず真っ白だ。歯が抜けているのか、時折発音が聞き取りにくくなる。覗いている歯はニコチンのせいか、真っ茶に近かった。
腕は細くてシミだらけ、顔もそこここにシミが浮いている。部屋着はミッキーマウスの黒の長Tシャツをもんぺのようなズボンの中に入れていた。昔水商売をしていた名残は無い。
歩く姿は腰が曲がり、百合華はノートルダムの鐘の話を思い出した。
「あたしゃ、スナックよっちゃんの頃からあそこのチーママやってたんだ。ママより年増だったけどね。」
「なるほど…。」
吉田不動産で吉田剛から聞いていたが、知らないフリをした。
「嫌な思いしかしなかったね。でも金がなくてね、アテもねえ。だから頼子んとこに頼むしかなかったんだよ、わたしにゃあ、息子と娘がいて、旦那は事故で亡くしたもんだから金に困っててね。」
話し始めるとドア越しの時よりも言葉に棘が無かった。
「ああ、とにかくやな思い出ばかりだ。だから話したくもねえ。」
そう言いながら、石黒はコップに水を入れ、百合子の前にドンっと置いた。
百合華は頭を下げた。
「それでも独立されてここを経営されていたんですね。」
「ああ、でもそれも弥生の策略さ。あの売女の話なんかしないからね、わたしゃ。」
百合華は話を変えた。
「石黒さん、新聞は取っていますか?」
「あ?なんだい急に。取ってねえよ。こうもばばあになると世の中のことに興味なくなっちまうんだ。」
「テレビもありませんね。」
「テレビなんか置いたこともないね。何が娯楽だ。くだらねえ。」
「食材などはどうされているのですか?スーパーに買いに?」
「ああ、近所にスーパーがあるからねえ、買いにいく。それが何だってんだい。」
「いえ…ちょっと、気になったもので。もう1つよろしいですか?」
「何だい。」
「石黒さんは今、知人友人、親戚などはいらっしゃいますか?」
「この辺じゃあもういねえよ、皆都会に行っちまった。息子は9年前に癌で亡くなったし、娘は嫁いで遠くへ行った。昔は店の関係で知らねえやつはいねかったが、今は知ってるやつの方がよっぽど少ねえ。話もしやしねえよ。」
確かに弥生とは無関係の話題には割とすらすら答えてくれる。しかし同時に百合華は心配になった。新聞も取っていない、定期的に家に来る人はいない、もしこのおばあさんに何かあったら一体どうするのだろうか。
「石黒さんはどのように1日を過ごされているのですか?」
「あ?朝花に水やって、あとは寝てるさ。やりたいことなんちゅうもんはもう無いしな。やっぱりこの大福うまいねえ。周造さんが常連さんで店にきてくれてた頃が一番よかったかもねえ…」
「周造さんとは、大福屋の…?」
「ああそうだよ。昔はハンサムだったんだ。」
「周造さんとは今は…」
「会うことが無いしね、会っても話することもねえよ。変わっちまうんだよ、色々。」
そう、変わってしまうのだ…町も、人も。
部屋が揺れた。耳が裂けそうな爆音がする米軍戦闘機が着陸態勢に入っているのだろう。