113. 石黒宅
竹内夫妻の新築マンションを後にしたばかりの百合華は、寂れたスナック街にたどり着いた瞬間に鬱屈とした重圧を感じずにはいられなかった。
ここだけ世界から取り残されたゴーストタウンのように思える。
百合華は石黒宅を訪問する前に、以前寄った和菓子屋で、大福を6個買ってきた。食べ物で釣ろうだなどというのは安直な考えである、というのはわかっていたが、飯島夫妻を訪れた際手ぶらだったのが恥ずかしくて今回は用意していくことにしたのだ。
車をスナック街の入り口周辺に適当に停めて、大福の入った袋を持ち、石黒の住む家を目指した。
張り込み調査も有効だと百合華は思っていた。しかし自分が石黒の立場であったらどうだろう。
会いたくも無い人に、マスコミのようにどうしても話がしたいと直接に言い寄られたら、鬱陶しくて逆に心を閉ざしてしまわないだろうか。警戒心も上がるだろう。
一か八かの勝負だが、大福を買ってしまった以上、直接話しかけ、石黒が納得した上でドアを開けてくれるのを期待することにした。
石黒の住む家の下までやってきた。見上げると今日も花は綺麗に咲いている。案外こまめな性格なのかも知れない。百合華の場合、鉢植えの植物を買うとすぐに水やりを忘れて枯らしてしまうからだ。
それにしても暗い。雰囲気や空気だけでは無い。石黒が住む建物自体が暗い。以前は盛況したのだろうか、石黒の店の閉ざされたシャッターにはスナックという文字だけかろうじて判別できるが、スナックの名前は風化され消えてしまっている。もちろん看板も無い。
居住している2階へ向かう通路もまた、暗い。晴れているというのに、隣の閉店したスナックとの隙間が狭くて太陽光があまり届いていない。
その上、2階へあがる鉄製の階段が黒色だから、より一層闇を感じる。よくここまで暗い中、怪我せずに暮らしているなあ、と百合華は感心したが、何十年も住んでいたら感覚で慣れてしまうのかも知れない。
百合華は移動しやすいように、白のコンバースのスニーカーを履いていた。なので鉄の階段を昇ってもさほど大きな音はしなかった。
20段近くあっただろうか、階段を昇り切ると少しだけ息切れがした。
この階段を、何歳かわからないが老婆が昇り降りしている姿を考えるとなぜか切なくなってしまった。孤独感、だろうか。取り残された世界の中の、たった1つの【生】は、闇の中から常に顔を出しているのだろうか。
百合華は唾を飲み込んだ。軽く咳払いをして、呼吸を整えた。
そして石黒の住む古いドアをノックした。
またもや返事が無い。
この部屋には訪問者が来ないという設定になっているのだろうか。
今一度ノックをする。
返事は無い。
次は声をかける。
「石黒さん、こんにちは。昨日伺った倉木百合華です。何度もすみません。」
何かが動く気配も無い。留守なのだろうか。
留守なら帰宅するまで待っておこうと思った。
「金払う気になったのかい。」
しわがれた声が部屋の奥から聞こえた。
「申し訳ありません、現金ではありませんが、大福をお持ちしました。とても美味しいと評判です。」
「大福?大福買う金があるなら、現金をくれりゃいいのに。頭を使いなよ全く。大福は取っ手に引っ掛けて、とっとと帰んな。」
呆れたようにしゃがれた声が言った。
だが百合華の考えは違った。大福を買う現金を渡して話を聞くことは、どうしても自分が納得いかないのだ。
以前、怜が「契約は嫌いだ」と言っていた。
百合華にとっても今はその心境である。契約で話をするより、目と目を合わせて会話がしたい。
「どうしても、石黒さんとお話がしたいんです。わがまま言ってすみません。でも、石黒さんがドアを開けてくれるまで、私は今日、ここに居ます。」
百合華もやけになり、ストライキを起こした。
「大した根性だよ、若いのに。」
「根性には自信があります。」
「バカだって言ってんだよ。」
「バカと言われても構いません。石黒さんとお話ができればそれでいいんです。」
「いいかい。あんたが、弥生の事じゃない事を聞きにきたならドアを開けたさ。でも話題が話題だ。弥生の事はもう話したく無い。それをこの老いぼれに強制したいのかい。」
「強制?とんでもありません。余程の事情がお有りなのは検討がつきます。辛い過去をどこの誰とも知らない人間に語りたい訳、ありません。ですから、話したく無いことは強制しません。話しても良いこと、答えても良いことだけに反応していただければ充分です。」
「諦めろって言ってんだよ。いいかげんにおし。」
「諦めません。軽い気持ちで伺ってる訳ではありませんから。もし今日無理なら、また来週末来ます。その時も無理なら、その次の……」
キイイイイイ……
という音を立ててドアが開いた。
「入んな。」
老婆は迷惑そうに皺だらけの顔で室内を示した。




