109. 飯島夫妻2
「そんなにお互い嫌いなら別れりゃいいのにって、ウチでは言ってたんだよなあ?
そのうち奥さんの方がスナックよっちゃんが忙しくなったのか夜は夫婦の喧嘩は静かになったけど、それでもにいちゃんの怒鳴り声や、壁やドアを叩く音とかは続いててな。今度は脅しの相手は赤ちゃんだよ。
頭きて、俺も警察に電話したんだ。そしたら「何もしてねえ」ってシラ切り通してやがったよ。」
「その赤ちゃんが、弥生ちゃん。3歳くらいまで家に閉じ込められてずっと怒声を聞いたり脅されたりしていたみたいで、かわいそうでねえ。
うちの押入れと、お隣の押入れが、ちょうど隣同士だったのよ。弥生ちゃん、押入れに閉じ込められていたみたいで、私も押入れに入って、とっても小さい声で「だいじょうぶ?」って聞いたら、トン・トンって小さなノックが返ってくるの。それで無事を確認する毎日だった。
3歳頃を過ぎて初めて弥生ちゃんを見たけど、こう言っちゃ悪いけど亡霊のようだったわ。ずっと家にいたから色が白くて、栄養失調で骨と皮だけみたいで。うちで何か食べなさいと言っても首を横に振るだけ。きっとご両親が怖かったのね。」
「あの子、ずっと何もしゃべらなかったな。」
「そうなの。きっとご両親に喋るなって言いつけられていたんじゃないかしら。私はそう思ってたわ。」
「いつもボロい服着て、すれ違うと臭いがすげえんだ。でも弥生ちゃんを汚ねえとは思ったことねえよ。汚ねえのは、両親の方だ。そうだろ?」
飯島夫妻は鎮痛の面持ちで話を続けた。
「あの子、弥生ちゃんが小学校に上がってから、事件があったの。
夜だった。その日は奥さんの頼子も家にいたのよ。達雄もね。もちろん弥生ちゃんも。その日の両親の荒れくるい方は半端なかったわ。冗談抜きでね、家が揺れてたのを覚えているもの。天井の電気が地震の時のように揺れていたから。
隣に住む私たちもストレスで、もう限界だから引っ越そうかという話をしていた頃よ。ここは……あなた言ってもらえる?」
真由子は正三を見て頼んだ。
「ああ、そうだな。その日は凄かった。声もいつもの数倍でかかったな。『お前殺すぞ!』とか『やってみろ!』とか。イメージしていたんだけど、2人とも包丁持った修羅場のような、そんな雰囲気だった。達雄はそこらじゅうの物を蹴飛ばして、どこかの壁を破っていたよ。頼子も何か、椅子のような物を投げたり、コップ投げたりして応戦してた。2人とも怒りが頂点に達してたみてえだな。
そしたらいきなり『こいつ殺してやるぞ』『やれるもんならやってみろ』っていうやりとりになって、これはもしかして弥生ちゃんが巻き込まれてるんじゃないかって緊張したよ。
弥生ちゃんを思い切り床に叩きつけたような、鈍い音がして、弥生ちゃんの悲鳴が聞こえた。そしたら『てめえ声出してんじゃねえぞ』とかなんとか、達雄の怒りの矛先が完全に弥生ちゃんに向かっちまってたんだ。
それから頼子の『どうせそんな度胸無いくせに』って煽る声聞こえてさ。『うるせえ、見てろ』みたいなこと、達雄が言って。そしたら次の瞬間、弥生ちゃんのギャーーーーーっていう声が聞こえてな。俺も女房も凍りついちまったんだよ。
そしたら、頼子が「押入れ入れときな」って言って、弥生ちゃんが無理やり押入れに入れられて、パシャっと押入れの戸が閉められる音が聞こえた。」
「それで、私が急いで押入れに入って、「大丈夫?大丈夫?」って何度も聞いたの。囁いたんじゃなくて、ちゃんとした声で。そしたら、ノックが一度も無くて。主人に相談したら見に行こうっていうことになってね…。」
「隣のドアを叩こうがチャイムならそうが、無視だ。だから警察と救急車呼ぶぞ!って俺が叫んだんだよ。そしたら達雄が出てきて、『なんだてめえ』
とか言ってたっけな。弥生ちゃんを見せろってったら、『おめーには関係ねえ』って。
仕方ないから強行突破だよ。
押入れを開けたら、お腹を抑えた弥生ちゃんが居た。両手の間からドクドク赤い血が溢れてた。
『そりゃ自分でやったんだ、俺らは関係ねえ。今救急車呼ぶとこだったんだよ。』って達雄が言って、実際救急車が来た。
出血多量だったけど、何とか一命はとりとめた。でも手術したらしいから暫く入院してたけどな。見舞いも行ってねえよ、あの両親は。『アイツのせいで無駄な金がかかる』とか懲りずに言ってたわ。」
「優子さんが言ってた……『盲腸か何かの跡見せてあげる』…それだ。」
「え?」
正三と真由子が同時に言った。
「あっ、いえ、すみません。点と点が線になったもので…。」
「それから暫くしてから、コーポの改築工事が始まってよ、家賃高くなるから、奴らは別の場所に引っ越したみてえで。それ以来は見てないんだわ。噂では、スナックよっちゃんの裏側のちっこい敷地買って、居住スペース作ったって話だけど。
ほら、倉木さんよ。虐待は連鎖するって良く言われるだろ?子供の頃愛されたこと無い子が、どうやって自分の子を愛することができんだよ。見本、無いんだからさ。君の彼氏の怜君も、酷い虐待を受けたと聞いてる。
怜君のことはよく知らねえけど、虐待は連鎖しないってことを証明してくれる存在になって欲しいな。その鍵は、倉木さんよ、あんたの愛なんじゃねえかな。」
怜と恋人同士の設定になってしまっているが、正三の言ったことは深かった。
————ところで、【愛】は本当に虐待の連鎖を止めることができるのだろうか…。
「ま、俺たちが弥生ちゃんのことで知ってんのはそれだけだ。ちなみに達雄も頼子もお咎めなしよ。自分でやったってこと、警察が信じちまってな。弥生ちゃんは不幸にも、子供の愛し方を、知る機会が無かったんだよ。」
飯島夫妻に深くお礼を言って、家を辞した時には、百合華の心は泣いていた。
幼少期に愛情を注がれずに育った弥生は、実の子ども達を愛する方法を知らなかったのだろうか…。良心の呵責などなく、純粋にただ、理解できなかったのだろうか…。
そういう方程式みたいなものがあるのだとしたら、虐待された子どもが大人になったとき、自分も我が子に虐待するという仮説が成立する。
もしそれが本当なら、怜が仮に子どもを授かった時、怜もまた子どもを虐待するようになるのだろうか…?
彼が愛情の示し方がわからない、苦手だというのは何と無くわかるが、虐待をする例の姿を百合華は想像できなかった。
虐待にも様々な形がある。心理的虐待、身体的虐待、ネグレクト、性的虐待…。どれも鬼畜の所業だと思いきや、児童相談所の相談件数は年々上がっているらしい。子どもを死なせてしまうような虐待…死の直前まで追い込むような虐待…そして見えない・見られない虐待…。統計上に上がっていない虐待件数は、厚労省などが発表している件数よりずっと多いだろう。
弥生も、怜も、もしかしたら死んでいたかも知れない。だが助かった。見えない虐待から脱することができたからだ。
虐待の話は、するのも、聞くのも労力の要る作業だと思う。飯島夫妻には改めて感謝の念を抱いた。