107. セレステ1号館
やはり、何か行動を起こすと芋づる式に何か手応えがある、ことが多い。
石黒さんという老婆は、スナック弥生…もとい、その1世代前のスナックよっちゃんでチーママをしていた人だということがわかった。
怜のことを理解するのに、その母弥生のことを知り、理解するのはある意味必然である。しかし百合華は前から気になっていたことがあった。
以前、織田出版の社長夫人、優子と話をしていた時のこと。小学生の時の弥生は虐待を受けていたようで、顔以外の場所に、長期的に痣や傷があったという。弥生の父親は酒浸り、母親は場末のスナックのママ。弥生の友人として「こんにちは」と挨拶しても無視する両親。それが弥生の両親だったらしい。
実際に父親と母親のどちらが虐待をしていたのかはわからない。
これ以上は推測となってしまうので、早速、吉田不動産で聞いた飯島さん…セレステ1号館に住む老夫婦と、問題の老婆石黒さんから話を聞きたい。
石黒さんは難敵そうなので、先にセレステ1号館の飯島さんを当たってみることにした。
車なので、吉田不動産からセレステ1号館もさほど遠く感じなかった。
セレステ1号館は中規模のマンションと聞いていたが、百合華が想像していたよりは大きかった。薄い水色の外壁で、南向きのバルコニーは日当たりが良さそうだ。
エントランスは自由に開閉できたので、百合華はマンションの中へ入っていった。郵便受けが並んでいたので【飯島】という名前を探すと、603号室と書いてあった。
エレベーターも完備されている。築年数はだいぶ経っていそうだが、無駄な段差などは少なく、高齢の夫婦にも住みやすいのではないかと百合華は観察していた。
エレベーターで6階に降り、603号室へと向かった。
突然の訪問で、手土産も忘れてしまった。
先週買った大福でも買いに戻ろうかと思ったら、603号室が開いた。
飯島夫妻は買い物にでも出る所だったのか、最小限の荷物を持って部屋から出てきた所であった。夫妻と目が合った時、夫人に会釈された。他の部屋への訪問者と思われたか。
「い、飯島さんですか…」
消え入りそうな声で聞いてみた。
「はい?」
夫の方が、耳に手をあてて聞き返してきた。百合華はそれを機に、飯島夫妻に近づき、もう一度聞いた。
「飯島さん、ですか?」
今度は大きめの声で尋ねた。
「はあ。飯島ですが。」
夫が答えた。
「お出かけですか?」
百合華が聞くと、
「おたくさんは、どなたさんですかいな?」
と、夫は言った。
「申し遅れました。わたくし、倉木百合華と申します。飯島さんご夫妻が穂積弥生のご両親のことをご存知だということを伺いまして、少しそのお話を聞かせていただきたいのですが…お急ぎでしたらまた別の機会に……」
飯島夫妻は沈黙した。
突然の穂積の名前に、言葉を失ったようだ。
聞いてはいけない名前…開けてはならないパンドラの箱を、百合華は刺激してしまったらしい。
飯島夫妻は逡巡しているように見えた。
———話してしまいたい…いや、相手はどこの誰かもわからない他人だ、そう簡単に話せるものでは無い。もう…………終わったことだ。
百合華が沈黙を破った。
「本当に、申し訳ないと思っています。突然のご訪問に、突然のこの…話の内容ですから、驚かれて当然だと思います。
本来なら先にお約束をした上で、ご了承をいただいた上で来るべきだったのも理解しております。情けないことに、名刺すら持っておりません。
ですが、お時間をいただければなぜ私が飯島さんご夫妻に会いに来たのかを説明させていただくことが出来ます。どうか、お時間をいただけませんでしょうか……。」
すると夫人が言った。
「ここで……話すのも何ですし、お部屋に上がっていただきましょうか、あなた。」
「ん………うんん。」
飯島夫妻は百合華を部屋の中へと招いた。