106. 吉田不動産2
溺れる者は藁をも掴む。
百合華はどうしても、あの老朽化したスナック街で1人、花を育てながら住んでいる老婆のことが頭から離れなかった。
そうして、藁をも掴むことにした。
【吉田不動産】だ。
先週行った時は社長の息子、吉田剛がちゃらい顔でペラペラと、怜たちが幼少期を過ごしたアパート、コーポ室井について教えてくれた。
あの老婆の——名札も無かったから名前もまだわからない——ことももしかしたら何か知っているかも知れない。
吉田不動産の看板や旗は、五谷をウロウロしていると各所で見かけた。この辺の不動産では一番手広く仕事をしている可能性がある。
念の為、吉田不動産へ行くまでの間に見つけた不動産には寄って話を聞いてみた。しかし、「個人情報だからねえ」とか「あの商店街は…ねえ…」とかで、何の役にも立たなかった。
吉田不動産の吉田剛なら……。彼なら、愛想さえ良くしておけば何か情報をくれる気がする。以前の自分のままのようで気がひけるが、背に腹はかえられないのだ。吉田不動産まであと少し。どうか今日も彼が店番をしていますように。
吉田不動産の駐車場に車を停め、自動ドアを入っていった。すると、机越しにいたのは吉田剛に全く似ていない誰かであった。
「いらっしゃいませ。お部屋をお探しですか?」
バリトンボイスが不動産のビラが張り巡らされた白い部屋に響き渡る。吉田剛の軽い声では無い。
「あっ、この間のミキちゃん!」
部屋の奥から何やら資料を持って出てきた…それが吉田剛だ。
「ミキちゃんじゃありません、倉木百合華と言います。少しお伺いしたいことがあるのですが…」
「百合華ちゃんって言うんだ、似合う似合う。で、百合華ちゃん今日は何の用事?あ、そうそう、これ親父。」
これと言われたのはバリトンボイスの男だった。
「これはこれは、失礼。わたくし、吉田稔と申します。」吉田稔は名刺を百合華に渡した。
「物件をお探しで?」
「いいえ、ちょっとお話を聞ければ…聞きたくて。」
「どのようなお話かな?剛、お茶を。」
「俺は給仕じゃねえっつうの。ま、いいや、百合華ちゃんのためなら。」
「以前、剛とお会いしたのですか?」
「はい、先週寄らせていただいて、お話をしました。」
「どんなことを?」
「コーポ室井のことです。今はもう無くなっているというお話を…。」
「なるほど。」
吉田稔は口髭を撫でながら、物思いに耽っている。
コーポ室井のことを思い出しているのだろうか。
「はい、ミキちゃん、じゃない百合華ちゃん。」
「ミキちゃんって誰なんだ、さっきから。」
「人気モデルのミキちゃんじゃん、ポスターとかめーっちゃ載ってるし、CM出まくってるし。知らねえの、信じらんねえ。」
吉田稔は「うーん……」と唸った。
「コーポのことを調べていたのですか?」
吉田稔が聞いてきた。
「ええ、正直言いますと、穂積一家のことを。穂積怜さんは私の友人なのです。彼の許可を得て、彼の過去を今調査しています。」
今回の調査では、今の所嘘はついていない。
「穂積!やはりな。コーポ室井で思いつくのは穂積さんのところしかない。」
「穂積さんを覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、知っているよ。ただね、倉木さんだったかな。宅建業法45条というのに守秘義務というのがあるんだよ。【業務上取り扱ったこと】に関しては秘密は守らなければならないんだ。わかるね?」
「……はい。」
やはり守秘義務が出てきたか…
「だがね、【業務】とは関係なく、たまたま知り得た情報に関しては、この法律は適応されないんだ。そういう捉え方もできる、という話だよ。」
弥生はさっとロルバーンのメモ帳とペンを出した。
「それで、僕がたまたま風の噂で知ったことなんだけどね、ここだけの話。穂積弥生の両親の家、つまり実家が、スナック弥生から徒歩15分くらいにあるんだよ。
弥生の両親の名前は失念したがね…。
当時は、コーポ室井を少し新しくした位の古い物件だった。弥生の実家の隣に、飯島さんという人が住んでいてね。飯島さんは弥生の両親のことを良く知っている人だった。なんせ隣に住んでいたからね。
当初の弥生の実家は建て替えされて、今は【セレステ1号館】というマンションになっているんだが…土地開発でその辺の小さな家は全部壊されて大規模、中規模マンションが建てられるようになってきているんだよ。
おい剛、地図だよ、地図持ってこいよ。全く、跡継がせて良いものやら…。」
吉田剛に似て、いや、吉田剛が父稔に似たのか、お喋りが好きなタイプの人で良かった…と思いながら、百合華はキーワードをメモ帳に書いていく。
「地図〜。」
「地図どうぞ、だろ。全く。さて、ええと、ここがスナック弥生ですな。ここから西へ歩いて15分、そこに今【セレステ1号館】、これだ。これが建っている。ここの6階、最上階に飯島さんは住んでいるよ。
ご夫婦のお年が確か、70を越えているんだけどね、元気にウォーキングとかしているよ。ハキハキとね。飯島さんから穂積さんの情報を聞けるといいね。」
「ありがとうございますっ。それともう1つ、お伺いしたいことがあるのですが…」
「法に触れない程度のことならどうぞ。」
「この地図の…このスナック弥生。ここから商店街を…東へ進んで、スナック弥生とは反対側の並びの…ここ!ここだと思います。もうお店のシャッターは閉まっているのですが、人が住んでいるんです。どなたかご存知ですか?」
「あー、知ってるよ。石黒さんだよ。」
「剛!……まあいいか、うちが業務上関わった人ではない。知っているのはあくまでも人伝いの又聞きだ。」
「そうなんですか。あの方も、穂積さんのこと、何かご存知なのでしょうか。お金を払えば話す、とは言っていたのですが。」
「知ってるも何も、スナック弥生の先代、スナックよっちゃんでチーママやってた人だよ。」
剛が当たり前のように答える。
都市伝説のようになっているのだろうか。
「そうそう、そうだ。スナックよっちゃんの頼子っていったな、弥生の実母は。そこで石黒さんは働いていて、その内近所で独立したんだ。石黒さんも相当、頼子の情報は掴んでるだろうな。」
百合華は急いでメモをした。
怜の母=弥生(スナック弥生)
弥生の母=頼子(スナックよっちゃん)
「沢山の情報を快く教えて頂き本当に助かりました。これから、教えていただいたところを回ってみます。ありがとうございます。」
「あ、一応、ウチが情報源というのは…」
吉田稔が唇に人差し指を当てて「シー…」と言った。
「承知しました。では、失礼いたします。」
百合華は自然な笑顔で一礼をして、吉田不動産を去った。