104. 花
その古いドアベルを押してみようと思ったが、百合華は1つ気が付いた。ドアベルは埃まみれなのだ。押す場所も、周辺も、埃がべったりついている。
つまり、セールスも含め、この家への来客は無かった…もしくは近年は無かったということになる。本当に中に人がいるのか不安になった。
しかし、朽ち果てそうな錆びまみれのスナック通りで、プランターの中で咲く色とりどりの花。そこには【生】があった。必ず人はいる。いて欲しい。
百合華は一思いにドアベルを鳴らした。
部屋の中で、ピンポンという短いベル音が鳴る。
誰も出てこない。
留守だろうか?
百合華はもう一度ベルを鳴らした。耳を澄ますが何の音も聞こえない。帰ろうかと思ったら、部屋からカチャン、と、アルミの鍋と鍋がぶつかったような音が聞こえた。
————やっぱり人が居る。
「すみません、少しだけお話を伺いたいのですが、お時間いただけないでしょうか?」
「あんた、先週も居たねえ…」
酒焼けしたようなしわがれた声の、老婆の声が聞こえた。
「あっ、はい!スナック弥生の跡地が見たくて来ていました。」
「警察かい。スパイかい。探偵か何かかい。」
「いえ、違います。友人の為に個人的に調査している者です。」
「調査だって?あたしに協力しろってのかい。幾らだすつもりだい。」
一筋縄にはいかない…。
百合華は財布を出そうかと思ったが、何とか話し合いでこの老婆のドアを開けてもらいたかった。
「穂積さん。穂積弥生さん、ご存知ですよね。」
「当たり前だよ。ったく、あんたそれを見に先週来たんだろ?」
「はい、弥生さんについて知っている事があれば聞きたいのですが。」
「だから、幾ら払うっつってんだよ。あたしゃ忙しいんだよ。今だって昼寝してたんだ。」
昼寝…が忙しいのだろうか。老婆にとっては大事な時間なのかも知れない。実際にそれをまたもや百合華は阻害しようとしているのかも知れないのだ。
「大事なお時間に、本当に申し訳ないです。でも、お金は払いません。」
「なんだって?無料でこの老婆に話をしろってのかい?図々しいねえ」
「プランターのお花、綺麗ですね。この悲しい商店街で、心が明るくなりました。正直、もう人は1人もいないと思ってたんです。でもあの花が、私をここへ導いてくれました。お金を払うためじゃないと、私はそう思いたいんです。
それに私はプロとして取材をしに来ているわけじゃありません。例えば私の質問に答えるか否かは、全てあなたの判断に委ねられています。私は尋問をしに来たのではありません。お話がしたいんです。お話にお金が必要でしょうか。」
「馬鹿だねえ。人から情報引き出すのに手っ取り早いのは金なんだよ。そんなこともわからずに、『友達のために来た』だって?あんたの情なんか、あたしにゃ関係ないんだよ、さ、帰った帰った。あたしゃ寝るよ。」
いよいよ百合華は財布のことを考えたが、負けず嫌いの血が騒ぐ。
「ちょっと待ってください。確かにお金があれば手っ取り早いのかも知れない。でもあなたが、血も涙もない人だとはとても思えないんです。毎日水、あげてるんですよね?プランターの花に。あなたは優しい。優しいから言えないことが沢山ある。違いますか?お金があれば、割り切って喋れるから罪悪感も減る。違いますか?それでも私はお金に頼りたくありません。あなたが本心で喋りたいと思ってくださるまで、待ちます。」
「………若輩者が、説教かい。いい度胸してんね。でもねえ、お嬢ちゃん。世の中は、金で成り立ってんだよ。あんたの話で心打たれて話してくれる人もいるかも知れない、けどね、あたしゃ無理だね。情でなんか話すもんか。さ、帰った帰った。これ以上は時間の無駄だよ。」
本当に無理だ。百合華は思った。暖簾に腕押しだ。
もう一度財布のことをイメージした。
しかし、金を払って聞く話と、腹を割って聞く話はきっと違う…と百合華は薄々感じている。
「難しいとは思いますが…もし、気が変わったらこちらに連絡ください。待っています。」
百合華は、自分の名前と電話番号を書いたメモを新聞受けから入れた。
「倉木百合華か。べっぴんさんだからって、上手くいかないこともあるんだよ。覚えときな。」
覗き穴からこちらを見られていたのか。
部屋の中から、紙を破る音が聞こえた。
どうにかして、この老婆の心を動かしたい…。
時計を見ると11時過ぎ。明美さんは今頃開業準備をしているはずだ。
「また来ます。」
そう言い残して、百合華は老婆の家を去った。