10. 織田社長
穂積怜と男性に近づいて行くと、男性の方がこちらを見て"Hi."と白い歯を見せた。百合華も自然に"Hi."と返した。
男性のブルーアイズが眩い。艶めくブラウンの髪も綺麗だ。
穂積怜の方はこちらを一瞥もしない。素無視というやつだ。
百合華は少し冷静になり、自分の身なりを改めて考えた。見窄らしい、ずぶ濡れの女だ。急に恥ずかしくなり、ささっとハンカチで髪や額を拭いた。
男性に、もう少し近づこうと思ったその時、社長である織田に声をかけられた。
「倉木さん、こっちこっち。こっち座って。」
ブルーアイズの男性に微笑みを残しながら、百合華は社長の方へと歩を進めた。たった1m程の距離だったので、先程の男性と穂積怜の声が聞こえる絶好のロケーションであった。
社長は、カウンターの隣の椅子を百合華に勧めた。百合華は恐縮しながらも社長の隣に座り、思った。こうして社長と1対1でコミュニケーションを取るのは初めてだ。幾ばくかの緊張を覚えたものの、社長織田の評判は社内でも上々だったので不安は無かった。
「倉木さん、桑山君のところで頑張っているって聞いているよ。さすがは海外経験が長いと違うねってこの間、君の噂話をしていた所なんだよ。いや、数人の社員とね。桑山君も頑固なところあるでしょう?熱心さの裏返しなんだけど、彼を唸らせるのは倉木さんばかりだって聞いてね。本当に良い部下に恵まれて、僕も幸せに思ってる訳だ、うん。」
社長は、無垢の木の一枚板でできたカウンターを見つめながら、ウィスキーの入ったグラスをゆらゆらとゆっくり回していた。
失礼ながらも社長の顔をまざまざと見てみると、意外とつぶらな瞳をしていた。目尻の皺が功績を物語っている。この目で色々なものを見て生きてきたのだろう。
織田恭太郎。元警備員というだけあって、ガッチリとした体躯はスーツの上からでもよく分かる。上背もあり、一見強烈なオーラを纏った近づきがたい存在かと思わせるが、一歩近づけばすぐに懐に入れてくれる包容力がある人だ。年齢は確か50代後半…60代前半だろうか。
今日の織田は黒のスーツに、柄のついた赤の細身のネクタイを身につけていた。いかにも社長という感じだが、今の会社、織田出版ができるに至った経緯は、伝説として今も社内やこのバーで語り継がれている。
「社長にそのようなことを言っていただけるなんて…、今日ここへ戻ってきた甲斐がありました…」
百合華が呟くと社長は豪快に笑い、店長に「彼女の好きなものを。」とオーダーし、店長がすぐにマルガリータを作って持ってきてくれた。
「さあ飲んで、倉木さん。少し君の話を聞かせて欲しいな。」
「私のことですか?大した話はありませんよ…お店にスマホを置き忘れて大雨の中全速力で走るような、そんな人間です。」
わははは、と社長は愉快そうに笑う。