01. とあるバーテンダー
ー序章ー
倉木百合華は知っている。このバーのカウンターの向こうでグラスを磨くバーテンダーの名前を。
彼の名は穂積怜。
バーテンダーは彼1人ではなく、もう1人いる彼より年上とおぼしき、ひょうきんな店員が店長のようだ。他に働き手は居なさそうだから、差し詰め穂積怜は副店長といったところか。
ここは、百合華たちが働く出版会社、織田出版の社長が経営しているバー、【オリオン】である。
薄暗い照明と心地良いジャズの音色。無垢の木にこだわり、ドアや床材や柱、カウンターやテーブルセットまで全てが経年の良い色艶を浮かべている。古い絵やポストカードなどが飾られている壁は濃い紫にも茶色にも見える。大人お洒落なバーは全て社長の趣味・こだわりで出来上がっているそうだ。
バー・オリオンは、勤務終了後の会社関係者のコミュニケーションや憩いの場でもあり、時として業務外の会議室にもなる。(酒を呑みながらという異質な会議となるが。)
百合華にとっては、仕事が終わると、1日を終わらせる一種の儀式のように同じ編集部の女子仲間達とこのバーでお喋りをし、美味しいお酒を呑んで帰るというルーティーンになっている。
他の職場の人に会い、合流する事もあるが、大体はグループが決まっているのでルーティーンは変わらない。今日もそんな1日の終わりをオリオンで締めくくるところだった。女子仲間といつものテーブル席に座る。
「今日もオーラ出してるね〜、穂積怜」ヒソヒソとにやけて語るのは、同僚の竹内夢子だ。編集部の女子仲間は他に、野間宏美、真崎美由紀、浅田麻里と、自分を含めて5人だ。百合華たちはこの5人の仲間を編集部女子会と呼んでいる。
中でも竹内夢子は同期であることや、住居が比較的近いこと、趣味が合うことなどから気心の知れた仲だ。約20年前頃から編集部に同時に入り、もう5年程時が経つ。その間、宏美や美由紀、麻子が入社してきた。年齢的には5人とも大差は無い。気の合う仲間たちだ。
社内での陰湿なイジメなども無い。それぞれがのびのびと仕事をできる、そんな会社を経営している出版社の社長のリードのお陰だ。
今日も社長はバーに来て、ゆっくりバーボンを飲んでいる。ガッチリとした体躯に、積極的で、頼もしい行動力、情熱的で、突出したリーダーシップを誇る社長の名前は織田恭太郎。織田の横には優子夫人が座っている事も多々ある。仲睦まじい夫妻のようだ。
ところでこの織田社長、どうやら店長バーテンダーだけではなく、穂積怜とも繋がりがある様子なのだ。以前、ミーハーで一番若い麻里・通称まりりんが社長にノリで聞いたことがある。「社長、穂積怜さんってどういう人なんですか?」それに対し社長はこう言った
「コンフィデンシャルだよ、浅田さん。」
つまり内緒な事、だそうだ。それ以来、社長から穂積怜の情報を引き出す事ができずにいる。
なぜ私たち編集部女子会が穂積怜にそこまで興味を持つのか。彼は一言で言えば、異色の人物だからだ。
今までに誰しもが出会った事が無い存在。それは夢子の言うように、【オーラ】なのかも知れない。でもそれだけではない、言葉では言い表せない【何か】を、彼は持っているのだ。
だがそれは決して、バーテンダーとしてのスキルでは無い。穂積怜は客を凍りつかせるほど無愛想なのだ。