昼間の『悪夢』
ちょっと内容が重いかも………。
「嫌だ」
「…………」
なにも考えず、ただ口が動いていた。
反射的に、その答え以外が存在しないように。
僕は「嫌だ」と、そう答えたのだった。
だが、それは、僕にとって当たり前の帰結だったのだ。
例え誰に、何回、何万回、何千億回聞かれたところで、僕は嫌だと言うことだろう。
そもそも、僕の妹的存在になりつつある桃ちゃんを、どこの馬の骨ともしれない奴に渡す気は、毛頭ない。
例えそれがーーー桃ちゃん自身であろうと、なかろうと、だ。
「悪いようにはしませんし、私、あの子に謝りたいんです」
偽物は、少し動揺したように、僕の手を掴んだ。
縋るように、懇願するように、どうか、願いが叶いますようにと、そう願うように。
僕を見つめる。
偽物が言った、謝る。それは、存在を取ってしまった事について、少しは罪悪感を感じているという事なのだろうか。
偽物にも偽物なりに事情があり、仕方なくしてしまったことなのだと、そう弁論するのだろうか?
それでも、だとしても、だ、桃ちゃんを渡してしまった場合、どうなるのか、仮に桃ちゃんを襲わなかったとしても、桃ちゃんの存在を返す確証はどこにもない。
ーーー確証など、ないのだ。
「桃ちゃんを返したら、桃ちゃんのこと、どうするんだ?」
「勿論、しっかりと謝罪したうえで、『存在』を返す所存です」
桃ちゃんによく似た真っ直ぐな眼差しが僕を射抜く。
僕は、この眼差しに、弱い。
つい、この眼差しなら、信用して、信頼してもいいのではと思ってしまう。
桃ちゃんの瞳には、そう思わせるだけの、力があるように思えた。
それでも、やっぱり、相手は未知の相手だ。
なら、ここは……、
「月姫、桃ちゃんのこと……」
「絶対に渡しちゃ駄目ですッ……!」
屋上の入り口の物影に隠れていた、自称月のプリンセスに声を掛ける、が、答えは芳しくなかった。
いや、むしろ、月姫は、より一層警戒心を強めた声で叫んでいた。
そして、この場合、いつも僕のなかでの多数決は、僕よりも月姫のほうが優先されることに決まっているのだ。
地球が自転するレベルで。
つまり、月姫の意見が、僕の意見だーーー。
「ごめん。やっぱり、まだ君のこと、信用できない」
「私、本気で謝りたいんです!」
「ごめん! それでも、僕は月姫のこと、信じてるから……」
屋上に、沈黙が広がった。
信頼して、信用して、全ての責任を、情けなくも妹に預けている。
ーーーだから、僕いつだっては月姫を信じてるんだ。
吹き抜ける冷たい風が、僕を叱責するように、頬を傷つけているように、感じた。
そして、偽物が、ゆっくりと口を開きーーー、
「ふぅ…、やはり、最近の若の者は強情じゃのぅ」
一瞬、理解が及ばなかった。
桃ちゃんの口から紡がれたその言葉が、およそ女子中学生が発するような言葉ではなかったからなのか……、
ーーーいいや、違う。
目の前に、突如あらわれた、感じたくもないのに、感じてしまう程のプレッシャー。
先程までとは比べることもおこがましい程の圧倒的な気迫。
その場で呼吸することすら、この場の主の許可を得ない限り許さないのではないかと思ってしまうほどの、覇気。
まるで、さっきまでは、目の前の存在の体の一部分しか見えていなかったかのようだった。
逃げたい。そう、確かにこの場にいたくないと感じているのに、全身が恐怖というなの縄にがんじがらめに縛られているように、動かない。
何が違うかと聞かれれば、分からなかった。
ただ見える範囲での違いを伝えられるとするなら、ただ単に口調が変わったとしか言えないだろう。
違っているようで、違っていない。
ーーーけれど、真逆だ。
「大人しく渡してくれていれば良かったのにのぅ、せめて痛いのも、苦しいのも、絶望するのも、例えそれが忘れさられる不の産物だとしても、傷口だけは、浅くしてやるつもりでいたのに」
ひどくゆったりで、古典的な口調、これから起こることが分かっているかのように、語る偽物…、もう、目の前の人物が、偽物と言っていいのかさえ、今の僕には分からなくなっていたが。
感じる空気が、広がる空が、流れる雲の流れが、ひどくゆっくりに感じる。
出来ることなら、早く全てが、何もかもが終息へと向かって欲しいくらいに。
何も、考えられない、考えたくない。
「坊やよ、ワタシは今、特別に機嫌がいいからの。ここで、もう一度だけ、チャンスをやろう」
やっぱり、とてもゆったりとした、僕のことを坊やと称する穏やかな口調の偽物。
なのに、そんな口調とは裏腹に、感じる殺意は比べものにならないぐらいのもので、
「ちゃ…ん、す…」
自然と、声が震えていた。
出来れば、関わりたくない、話しかけたくない、この人の前で喋りたくない、この人に、自分という存在を認識して欲しくなかった。
なんの戯れで殺されても、文句一つ言えないうちに殺されてしまうと、本能が分かっているのだから。
「くくくっ…、そう露骨に恐れられると、ワシもなかなか堪えるのだがな。
まあしかし、それも今だけの話。
いや、この『今』さえ、なかったことになるのだがの」
コロコロと、面白いものでも見たように、笑う、怪物。
その笑顔は、桃ちゃんが笑うときとそっくりだった。
それでも、僕の目には、はっきりと『異常』に映る。
だが、今僕がどうこうしたところで逃げられないのは確かだろう。
恐らく、不意打ちで逃げ出したところで数秒後には、この世からいない。
ただ、この相手の性格を考えるのなら、また別だ。
見ただけなら、まだ温厚な性格に見える。
放たれる殺意を無視するのなら、まだ温厚だ。
見た目だけは桃ちゃんのまま、温厚なのだ。
その全てが張りぼての温厚だが、まだ、交渉の余地は残っているように思えた。
だが、
「あなたは……、桃ちゃんの影を返して、くれ…」
「ないよ」
ある意味、清々しいくらいの即答だった。
だが、交渉決裂したというのに、僕はあらかじめ、そう言うのだろうと、予想は出来ていた。
本能が理解していた。
やっぱり、さっきまでは、虚像の桃ちゃんを演じていたのだと、確信していた。
この怪物は、桃ちゃんなんかじゃない。
どこまで行ったって、決して桃ちゃんとは交わらない、 ただの『怪物』なのだ。
「チャンスというのはつまり、そちらにいる緑川 桃を、もう一度だけ、渡してくれとワシの方から、お願い、してあげるということじゃ」
こちらからは何も喋らない僕を、怖じ気づいたまま固まっているのだろうと推測した怪物は(その通り)、提案を、提示した。
お願い……、つまり、その次は、強硬手段。
暗に、そう告げているのだろう。
つまり、脅しだ。
納得できた。
この怪物の凶悪性が。
月姫が、何故あんなにも、渡してはいけないと叫んでいたのかも、何もかもが今なら納得できた。
先程の僕の質問に即答したことから、最初から『存在』を返す気なんてなかったのだと、容易に分かる。
つまり、この怪物は、最初から、罪悪感などなく、僕を騙し、桃ちゃんを捕まえる気でいたのだろう。
こんな怪物に桃ちゃんを渡したら、僕はもう二度と桃ちゃんに会えなくなる。
というより、桃ちゃんを偽物に託して、次にまた桃ちゃんに会えたとしてもそれは姿形が桃ちゃんであるだけで、それは桃ちゃんではなく、この怪物なのだ。
そんな奴に、桃ちゃんは絶対に渡さない。
いやーーー奪わせない
「僕はあなたに、桃ちゃんを渡す気はありません」
何度だって、相手が、どんな怪物だって、僕は断る。
「ふぅ…、まあ、予想はしていたが、こうなることだけは、出来れば避けたかったのにのぅ…」
怪物が、ゆっくりと白く細い左腕を上げた。
『パチンッ』
白く細長い親指と中指を、重ねて、音ならす、俗にいうところの「指ぱっちん」だった。
それを怪物がしたことで、何かが変わったのか。
変わっていなかったといえば、最初から目に見えるほどの変化など、なかったようにも思える。
先程の指ぱっちんで何が変わることも、桃ちゃんの偽物の口調が変わったことも、もとを正せば、最初から、ほとんど何も変わっていなかったのかもしれない。
ただ、さきほどと少し変わったことはといえば、辺りがシンとして、小鳥や虫、生徒逹の下校時間の騒ぎ声が聞こえなくなったことぐらいだろうか。
空には、闇が広がり、星々が瞬きはじめ、冷たい空気が体全体を包み込む。
こんな変化さえも、変わったうちには、入らない。
前を見れば、やっぱり自分が『怪物』と称した少女しか存在しておらず、
そして、不意に軽い反動が体に伝った。
目の前の光景が、少し変わる。
それも、たった一つの変化に過ぎないけれど。
いや、やはり、変わってはいなかった。
当たりはシンとしていて、小鳥や虫逹の声は聞こえず、下校時間の生徒逹の声も聞こえなくて、体を包み込む風が冷たく、
そして、他に変わったことと言えば、目の前で、深く、深く、月姫の肩に日本刀が突き刺さっていることぐらいだった。
「は……?」
口からは間抜けな音が漏れる。
変わって、いた。
何もかもが変わっていたのだ。
ただ、自分がその事実に気づきたくなかっただけで。
何が最初から変わっていない、だ。
指を鳴らしただけで、音が無くなり、小鳥や虫逹がこの世から消え、下校時間の生徒逹は異次元へと吸い込まれるように消えた。
それの、どこが変わっていないことだというのだろう。
景色は昼から夜へと一変し、全てが変化している。
ーーーだが、もっともの変化は、月姫の肩に突き刺さっている、日本刀だった。
僕はつまり、月姫に突き飛ばされたのだ。
本来なら、あの時、あの場所で、僕の肩に突き刺さるはずだった日本刀を、月姫が突き飛ばして、変わりに月姫が刺された。
どうしようもない、目の前に広がる変化で、現実だ。
「ほぅ…、兄を庇うとは、兄孝行な妹じゃのぅ」
「あっ……くっ、あぁ…がぁ」
「月姫ちゃん……!!」
桃ちゃんの恐怖に染まった声が、月姫を呼ぶ。
まるで一輪の真っ赤な花が咲き誇るように、月姫の制服は月姫自身の鮮血で、赤く染まっていた。
月姫の掠れた呻き声が屋上に響き、日本刀の光る刃には、月姫の血が滴り、アスファルトを濡らす。
「だが、もってあと数分だろうて…」
「ああああぁぁぁぁ……!!」
より一層、月姫の絶叫が屋上に広がる。
残酷な死亡予告を告げた怪物は、日本刀を持つ手に力を込め、 痛々しい傷口を広げるように、より深く刀部を力付くで押し込んだのだ。
既に日本刀はその大部分が月姫の身体のなかへとその刀身を隠し、目に見える範囲では、ツカの部分しか見えない。
「このっ………!!」
月姫に突き飛ばされた僕は尻餅をつく。
もう、何も考えられなかった。
理解しがたかった。
思考が、意識が、ただ前の存在を許せない。
なのに、自分が相手より弱いと分かっている。
それでも、本能的に僕は怪物に殴り掛かっていた。
「『縛夢在現』」
微かに怪物の口が動き、呪文のような何かを口にした。
その瞬間、金縛りにあったように動けなくなり、まるでキツい縄を身体全体に張り巡らせられているような感覚に陥いった。
見えない縄は、僕の身体を真摯に、真摯に、痛めつけるように、身体を固く縛りつける。
それは、抗えば抗うほど、締め付けは強くなるようで、抗い難い縄だった。
「ぐっ…、月姫に、触るな………!!」
かろうじて動く口で吼える。
「坊やよ、お主は、弱い。つまり、今この状況では静観の姿勢を貫くのが最善だとは、思わんのか?」
日本刀から手を離し、怪物が忽然と微笑みながらこちらに寄ってくる。
どこか超然とした態度。
まるで種族が、次元が、見ている世界が違うかのように感じる。
対峙している相手は、姿形だけは年下であるはずなのに、喋り方からも、威圧感からも、ついつい自分よりずっと年長者に思えてしまうのだ。
「つまりワタシが言いたいことは、だな。弱者にも、弱者なりの強者に対する態度があると思うとーーーそういうことじゃ」
怪物が目を細め、何かを呟き、
『トサッ』
後ろで、何かが倒れた音がした。
「も…、桃、ちゃんに…、触るな……」
「とうてい無理なお話し、じゃな」
後ろでは、先程まで声を震わせて月姫の名を叫んでいた桃ちゃんがいるはずだった。
だが、さっきの音を聞くかぎり、僕と同じか、もしくはもっと強力で厄介な『何か』を掛けられ、倒れている可能性が高い。
ーーー絶望的な状況だ。
「やはり……、存在など、在って、無く、けっきょくは全てが力で決まる世界……か」
そう何かを諦めるように呟いた怪物は、僕の横を通り過ぎ、桃ちゃんの方向へと向かう。
ツカツカと横を怪物通り過ぎるのに、手が、足が、身体がーーー動かない。
すぐ横を通り過ぎる相手を、止めたいだけなのに、
止めたいのに、止めたいのに、止めたいのに、止めたいのに、止めたいのに、止めたいのに、止めたいのに、止めたいのに、止めたいのに、止めたいのに、止めたいのに、止めたいーーーー
「ああああぁぁぁぁぁ……!!!!」
後ろで広がった絶叫。
桃ちゃんの、声、だった。
聞きたくなかった、凄まじい絶叫。
人の命が蔑ろにされている状況。
そんな状況なのに自分に出来ることは、口を動かすことだけ。
ーーー自分は、一体、どれほど無力なのだろう。
「やめ、やめてくれぇーーーーー!!」
「無理だのぅ」
丁寧にも、素っ気ない否定の言葉を、必ず返す怪物。
ああ……、もう、この怪物は、いったいどれだけ自分の大切な者逹を奪えば気が済むのだろうか。
月姫でも、流石にあんな傷では………、いや、考えたくない。
それでも、考えなくたって、分かってる。分かっている。あんなの、小学生が見たって理解できる。
考えなくたって、答えはでるものだ。
見ただけの、目の前の現実を見てみれば、答えは自ずと出る。
だから、あんなの、最初から見ただけで分かってた。
あれほどの血が流れれば、それも、まだ小さい成人前の女の子の血が、あれほど流れたならば、それがどういう意味を表しているのかくらい、分かる。
今この場所が病院で、施設が整えられているのだったら、もしかしたら助かるかもしれないような状況だ。
間違っても、こんな得体の知れない学校の屋上で、しかも、下手すれば異次元かもしれないような場所では、とうてい助かりっこない現実だと、ほとほとよく理解出来ていた。
「月姫……、どうか、まだーーー死なないでくれ」
ポツリと呻くように呟く。
今この場を打破できる可能性が一番高いとしたら、それは自分であることが分かっている。
なのに、身体が動かない。
理不尽だ。この状況の全てが、理不尽だ。この世界は、理不尽だ。
「さぁて、全ての仕事も終わったし、今日はもう終いとするかのぅ」
「がぁっ……、ああぁ……」
どこか気の抜けた様子で月姫の肩から日本刀を抜く怪物。
月姫の呻き声が聞こえた。
既にほとんどの血を出し切り、脱力したように倒れこむ月姫。
まるで、悪夢を見ているようだった。
月姫の息も、途切れ途切れに聞こえ、あとは怪物が屋上を我が物顔で闊歩する音だけが響く。
「坊やよ、いいお知らせじゃ。仕方なく……、本当に仕方なく、ワタシは坊やを生かしてあげることにした。まあ、これも坊やの妹が坊やを命懸けで守ろうとしたから、情けを掛けたくなったと、
つまりはそういうことじゃな」
何を言っているのだろう、この怪物は。
今更、遅すぎる情けだった。
情けを掛けるなら、僕なんかより、月姫に掛けてくれれば良かった。
なんで今更、僕に情けを掛けるんだよ。
いまさら僕だけが助けて貰ったって、意味がない。
それなら、いっそ、いっそーーー、
「いっそ、僕も月姫と同じように殺せばいいだろ………、なにいまさら善人ぶってんだよ…………怪物がァ………!!」
「…………。まあ、ワタシも今更、坊やにどう思われようが構わないしのぅ。しかし、一つ忠告しておくとすると、この場合、全ての物事において油断し過ぎていたのは、坊や自身の過失じゃのぅ」
桃ちゃんに『何か』をしたあと、恐らく足音から、僕へ怠慢な動きでゆっくりと足を進める怪物。
そのまま怪物は「つまりは」、と言葉を引き継ぎーーー、
「坊やの過失と過信が、妹と友人を殺したと、そういうことじゃ。違わないかのぅ?」
ーーーちが……違わない。違わ、なかった。
僕なんかよりも月姫はずっと偽物を警戒していたのだ。
なのに、僕が月姫の警戒なんか無視して、勝手に、暢気に、行動したから、こんな結果になった。
最初は、もっと闇討ちや、強硬的な作戦で、緊張感が存在していたはずなのに、いつの間にか緊張感が欠け、相手のことを話せば分かる相手だと、命なんか奪える筈がないなんて、どこにも確証を信じて、相手のことを舐めていたのだ。
これは、この現状は、僕が招いたーーー月姫の『死』だ。
「最後に、怪物と思われ続けるのも少し寂しいのでのぅ、名前くらいは名乗っておこうかのぅ。ワタシは、『白狐』(びゃっこ)、百年の狐じゃ。まあ、全てを忘れる坊やからすれば、どうでもいいことかも知れぬが、それでも潜在意識のなかにくらいは、留めておいてくれ」
僕の耳元で囁くように呟いた白狐は、また、細く白い右腕を夜空へと掲げるとーーー、
『パチンッ』
再びあの忌まわしい音を響かせたのだった。