悪夢の『序章』
幼い時から、よく見る夢。
目の前で血に………、染まっている。
『何が』?
…………その答えは、考えたくない。
考えたくなんて、ないんだ。
現実を受け入れたくない。夢にしてしまいたい。頭がぼやけて、耳がキンキンと痛む。
こんな事になると分かっていたのなら、産まれてこなければ良かったのに。
今更後悔したって遅いのに…………。もう、戻ってくるわけ、ないのに…………。
永遠にあの温もりは戻ってこないのだという喪失感が心を蝕む。
全部、全部全部、僕のせいで……………。
「……ひぃ……、あ、あぐっ………、あ………、あ………」
誰かの泣き声が聞こえて、僕の頬に涙が伝う。
その声も、泣きすぎていて、声がほとんど出ていない。
血で染まりきった世界。
ぼんやりした意識の中で床を見つめた。
赤黒い血が、やけに鮮烈だ。
それだけじゃなく、そこらかしこに血がこびりついている。
ああ…………僕の幼稚園カバンにも、びっしりと○○の血がこびりついちゃってるな……。
こんな現実、到底受け入れられる訳がない。
「なら、嫌な事は、ぜーんぶ忘れてしまうと良いよ!」
唐突に現れた存在。
「確かに君は大きな過ちを犯してしまったかもしれない。だけど、君はその悲しみを隠す方法を知っているはずだよ!」
目の前で聞こえる、場違いにも、まるで素晴らしい提案を思いついたかのように手を合わせて喜ぶ声。
異常だ。
でも、そんな声に対して僕は思う。
思ってしまう。
なんて自分勝手で、自己満足の塊で、自分本位で、横暴で、傲慢な考えで、それでいて………………。
*******
「……………き……………あに…………」
「…………う…ん?」
月姫の声が、聞こえる………?
もう朝なのかな……、そろそろ起きないといけないのか?
でも、なんだか凄く嫌な夢を見たせいか、起きたくない。
「分かりました。 じゃあ、こうすればいいんですよ!」
うん…? 月姫以外の声?
「そりじゃあ、行きますよ! 1、2の~、3!」
僕は本能的に左へと急いで寝返りを打った。
そっと目を開ける。
「あっ………、起きてくれましたか、ハジュハジュさん」
「あ、あの……、その、僕の真横に突き刺さっている包丁は………、い、一体、な、何……?」
僕の真横では、キラリと光っている包丁が枕へと突き刺さっていたのだ。
「え? ああ……、これは、ハジュハジュさんが起きてくれると思って」
「もっと平凡な起こし方できないのかよ!」
どんだけナーバスな考えなんだ!?
「運悪かったら永遠に眠ったままだったよ!?」
「あっはは、永眠だから「永遠に眠ったまま」、ハジュハジュさんったら、上手いこと言いますね!」
この娘は…………!
普通に殺意を持って接してくるのだから、いくら命があっても足りないくらいだ。
しかも常に態度がふざけている。
「まあ…………………、本当に永眠した人もいるんですけど、ね」
じょ、冗談、だよね?
「でもでも………、私、本当にハジュハジュと月姫ちゃんを気絶させてしまったのは、申し訳ないとも思っています」
両方の人差し指でツンツンとつつきあっている。
本当に反省しているのだろうか。っていうか、お起し方に関しては反省してないのか。
「それでも、本当に凄いですよ! だって八代お兄ちゃんは、ギリギリ避けきれずに病院送りになった事もあるんですから」
ああ…………、だから前、顔面に包帯を巻いてたのか。
長年の謎がようやく溶けた。
どうしたのか聞いたけど、遠い目をしたまま答えてくれなかったもんな………。
まさか僕も体験する事になるとは思ってなかったけど。
どうして妹という生き物は、こうも凶悪で凶暴で狂暴なのだろうか。
もう、一体何なのだろうか、馬鹿なのだろうか、妹とは、常に殺気を放っていないと気が済まないのだろうか。
「兄貴、起きたのなら、ちゃっちゃとご飯を食べちゃってください」
黄色の水玉エプロンを着けた月姫がフライパンを持って立っていた。
本当に、見てくれだけは2人とも完璧なのにな………。
中身があれじゃあなぁ………。
「はあ………、癒やしが欲しい」
「「…………? 癒やしなら此処にあるじゃないですか」」
当たり前のように言ってのける2人に自意識過剰という言葉を切実に教えてあげたくなった。
*******
「はむっ………もぐもぐ、もぐもぐ、ゴクゴクっ、ゴクゴクっ、プハァ!」
「あむっ………むしゃむしゃ、むしゃむしゃ、ゴクゴクっ、ゴクゴクっ、プハァ!」
何故僕は朝から、凄い勢いで朝食を貪る美少女2人を見なければならないのだろうか。
お腹の中にブラックホールでも広がっているのだろうか。
まるで飲み物を飲み干すようにして、次々と朝食が吸い込まれていく。
ポテトサラダ、オムライス、目玉焼き、玉子焼、スクランブルエッグ、ベーコン、ウィンナー、ハンバーグ、チキン、ステーキ、蕎麦、うどん、ラーメン、ホットケーキ、コーンスープ、クリームシチュー、食パン、チョココルネ、クロワッサン、フランスパン、牛乳、桃、葡萄、バナナ、苺、林檎。
家にこんなにも食べ物があったのも驚きだが、思春期女子の食欲にも驚愕するばかりだ。
よくこんなにも食べ物を食べられるな。
「はひゅはひゅさん、こほぉれ、おかわひおねひゃいひまふ」
「あにひ、わたひのも、おかわひ」
口一杯に食べ物を詰め込みながら、一応、女の子な2人がお茶碗を渡してきた。
僕がさっきからおかわりを担当しているのだが、いつ僕が食卓に付けるのかは不明だ。
「僕はいつになったら朝食にありつけるんだ……」
「もぐもぐ、ごくん。ふぅ……、ハジュハジュさんは、私を食べちゃえばいいじゃないですか」
「普通の会話の中にサラッと下ネタはさまない!」
しかし、桃ちゃんはほっぺを膨らませ。
「ぷぅ」
「何が『ぷぅ』だよ!?」
可愛くないよ!
なんで緑川や緑川の親達は桃ちゃんに[慎み](女子力)を教えなかったのだろうか。
そもそも、前々からこんな子だっただろうか。
前はもっと……、そう、もっと…………。
………………………………思い、だせ、ない。
あれ?
僕は桃ちゃんと人生ゲームとか黒ひげ危機一発とかする間柄で、旧知の仲、だったよな?
でも、何故か昔の桃ちゃんの様子をあまり覚えてない気がする。
例えば、どんな風に僕と話していたのだとか、緑川とどう接していたのだとか、思い出せない。
今日のこんな調子が当たり前だった気もするし、違う気もする。
あまりに印象が薄いからと言って、そんなにその人の存在を忘れる事なんて、ありえるだろうか?
「ハジュハジュさん!」
桃ちゃんの声が僕の思考を打ち切った。
いつの間にか桃ちゃんは箸を置いていた。
桃ちゃんは僕の目をジッと見つめている。
「後で…………」
桃ちゃんは言いかけて、止めて、ジッとお茶碗を見つめ………、目を瞑ると。
「帰り……、ます。 家に」
静かに、そう答えた。
確かに、仕方ないのかもしれない。
流石に娘が一晩、何の連絡もなしに帰ってこなかったとしたら、心配性の親なら、その日の朝に警察に届けを出してもおかしくないだろう。
だけど………、桃ちゃんがあんな雨のなか1人で倒れていたのも、きっと複雑な事情があったからなのだろう。
それは、もしかすると、桃ちゃんが精神的に追い詰められていたからかもしれないのに。
なのに、今の状態(病み上がり)の桃ちゃんを1人にするのは、やっぱり不安だ……。
こういう場合、家族なら病院にも連れて行ってあげられたのだろうかか。
月姫もいつの間にかご飯を食べる手を止め、顰めっ面をしていた。
桃ちゃんは虚ろな瞳のまま、茶碗のなかを見続けた。
息苦しいような、まるで鉛でものしかかっているような、重い雰囲気が漂う。
「あーー、もーー、バッカじゃねーんですか!?」
机をダンっと叩きつけ、月姫が立ち上がった。
まるで少し怒っているような、やけっぱちのような口調で、叫んだ。
まだ口の周りにご飯粒がいっぱい付いている。
「こういうグダグダじめじめした雰囲気、大っ嫌いです!
もう! 本当にもう! とっても、もう! 大きく、もう!
許可してあげやす! もう、どこの家庭事情に首を突っ込もうが、しったこっちゃねぇです!」
「つ………、月姫……?」
「その代わり、兄貴は防犯用に護身ナイフを持ち歩くこと!
ピーチちゃんには、家の滞在許可を出してあげます!」
「月姫ちゃん…………」
清々しいように言い終えた月姫は、またドッカリと椅子に座り、朝食を食べ始めたのだった。
*******
「……………………」
「……………………」
「……………………」
昨日と同じくリビングに集まり、昨日と同じ場所に座る。
桃ちゃんは昨日と同じように蛇のぬいぐるみを抱えて座っている。
だが、昨日とは違い、辺りは重苦しい空気に包まれていて、誰も喋ろうとしない。
桃ちゃんは俯き、月姫はあれだけ朝食を食べたのに、まだバリバリと醤油せんべいを食べている。
どんだけ食うんだ。
リビングにチクタクチクタクと無機質な時計の音と月姫のせんべいを食べるバリバリという音が響き渡る。
「私には、もう、帰る家なんて、ないんです………」
そんな沈黙を破るようにして、桃ちゃんが呟いた。
帰る家がない?
どういうことだ?
親に追い出されたとか、そういう事なのか?
それか、家族と喧嘩とかして、家に自分の立場がないとか。
「誰も私の事なんて気づいてくれないし、私が誰かと手を繋ごうとしたって、誰も振り向いてさえくれない」
桃ちゃんが拳をギュッと握りした。
その拳の上に、ポツポツと涙が静かに降ってくる。
思い出すだけで、そんなにも涙が出てくる。
それは余程の事がない限りないのだろう。
しかも、いつもよく笑っている桃ちゃんが泣いたのなんて、僕は見たことがなかった。
強い人間でも、どうしても耐えられないことがあるのだと、その事実が苦しい。
そんな事情があったにも関わらず、今まで笑顔を保っていた桃ちゃんを見て、全く気づいてあげられなかったことが、情けない。
僕は年上で、お兄ちゃんで、この家のなかでは、一番年下の様子に気づかなきゃいけなかったのに。
何やってんだよ……………。
「わた、わたしぃ……、もう一生、ひぐっ、気づいて…………、ひぐっ、もらえ、ないと、………ぐすっ、思って………」
涙声が痛々しい。
「………分かった。 桃ちゃんが今まで辛い思いをしてきたのは。
だけど、その………、誰にも気づかれないっていうのは、つまりどういうことなんだ?」
もしかして、クラス内でいじめを受けていて、誰からも無視されていた。とか、そういうことなのか?
ただ、そうなると帰る家がないという言葉はどうなるんだ?
家庭内で無視を受けているとは考えにくいな。あのブラコンが桃ちゃんを無視できるとは思えないし。
となると、一体なにが桃ちゃんをそんなにも苦しめてるんだ?
まるで桃ちゃんは、誰かから相手にしてもらえない事に怯えているようにも見える。
「それは…………、存在を認識してもらえない、私と兄貴以外に、認識できないと、そういう事ですか」
月姫が静かに桃ちゃんに聞いた。
しかし、声とは裏腹に、何故か月姫は信じられないような目で桃ちゃんを見つめ、緊張感と共に。
ーーーー震えていた。
「月姫、大丈夫か?」
「あ…、いや、わ、私としたことが情けねぇです。 くっ、兄貴に心配されるとか、屈辱です。 それに、兄貴の分際で私の心配とか、生意気です!」
なんで心配しただけで悪口言われんだよ!
僕、そんなに悪いことしたか!?
人の好意をそこまで悪い風に捉えられるのも、もうある意味天才だよ!?
「あっ………、話が逸れちまいました。 ピーチちゃん、もう一度確認しますが、ピーチちゃんは私と兄貴以外に認識してもらえない、と、そういう事で間違ってませんか?」
月姫はもう一度桃ちゃんに問いかけた。
やっぱり僕の思い過ごしなんかじゃなくて、月姫は緊急しているように見える。
そして、桃ちゃんはというと………。
涙で一杯の目を大きく見開くと、
「な……、あぁ………、あっ…、うわああああぁぁぁぁぁん………!!!」
「えええぇぇぇ!?」
桃ちゃんはいきなり号泣した。
いや、本当に比喩的とかじゃなく、『号泣』したのだ。
大きな声で泣き、身体が震えている。
まるで幼子が泣くように、本当に長い長い旅のなかで、ようやく最後が見えた時のように。
桃ちゃんという、中学1年生の少女にとって、どれほど残酷で辛い旅だったのか。
誰にも助けてもらえず、家族にさえも見放されて、やっと手を差し伸べられても、「家に帰る」と、自分から、助けてもらった人を巻き込まないようにと、手を振り払った。
その少女が、やっと誰かに理解され、心の底から安堵できた。
そんな瞬間だったのかもしれない。
一方、僕はと言えば…………。
何が起きたのか分からなかった。
え? は、? え? え? い、いきなりこんなに泣かれても!?(コミカルな雰囲気から微妙にシリアスな雰囲気へと転換できていなかった)
ど、どうすればいいんだ? どうしたら泣き止ませられるんだ!?
そもそも僕にとって誰かが泣く場面など、月姫が幼稚園で泣いていた時以降、見たことがなかったのだ。
そんな僕に、自分より小さな女の子を泣きやませる方法などは、到底思いつかない。
「ひぐっ、えぐっ………」
「いい子…、いい子」
いつの間にか(僕がアタフタしている間)に月姫は膝をつき、静かに桃ちゃんの頭を撫でていた。
まるで月姫は赤ちゃんでもあやすかのように、ひたすらに優しく桃ちゃんの頭を撫で続ける。
桃ちゃんの呼吸が、少しずつ安定して、先程の震えも落ち着いてきた。
素直に、驚いた。
驚愕したと言っても差し支えない。
いつの間にか、月姫と『兄と妹』の立場が入れ替わっていた。
僕は、思ってしまった。
ーーーーああ、なんだ………、月姫は、もう、僕なんかいなくても、十分、一人で………。
僕は、結局こういう大事な場面で、何もしてあげられない。
さっきから、何もしてあげられていない。
桃ちゃんを慰めることも、月姫の緊急感がなんであるのか、分かってあげることも。
本当に、ダメダメな兄貴だな。
いや、何が、『兄』なんて、息巻いていたのだろう。
いまさら年上ぶったって、ちゃんちゃらおかしい。
ふぅ………、それにしても、非常に百合百合しい光景だ。
「はぁ………、月姫ちゃん、あ、ありがとうございました。
そ、それに、ハジュハジュさんも…………、えと、その、涙なんて見せちゃって、すみません……」
「いや、僕の方こそ、ごめん…………」
「なんでハジュハジュさんが謝るんですか?」
「いや、何でもないんだ、本当に……、自分のちっぽけさに……、大分落ち込んでいただけだから………」
「そ、そうですか。 (ズル)ハジュハジュさんも、(ズル)大変な(ズル)思いをされているんですね」
泣いた後だからか、ズルズルと鼻水を垂らしている。
けっして僕のためではないのだろう。