そんなの出来るわけないじゃないっ!
SIDE:SHIM
今日も今日とてシムは職業兵に連れられて、実験室へ連行される。その顔は少しやつれていた。昨日、一昨日と休みなく振り回され、睡眠時間もまともに取れていないのだ。
『危険、覚醒、要請』
今も大蟲が頭の上を動いていなければ、そのまま寝てしまいそうだった。重い瞼をこじ開けながら、代わり映えしない滑った光沢を持つ灰色の背中を追う。
「あら? 今日はまた随分遠くに行くのね」
『同意、遠方、移動』
誰ともなしに呟くが、大蟲以外は反応してくれない。三十分以上歩いても目的地に着かない理由は気になるが、問いただす事も億劫だった。
大人しく職業兵の後ろを歩いていると、床や天井まで金属で出来た区間を超えて奥へと向う。素足にひんやりとした金属の床は丁度良い眠気覚ましとなった。
廊下の突き当たり、通路一杯を遮る金属の門の前で職業兵が立ち止まる。シムの前を歩いていた職業兵が脇へどけた。入れと言う事だろう。
シムが門の前に立つと、待ち構えていたように門が左右にスライドする。二重三重に重ねられていた門が花弁の様に一枚一枚開いた。
「やあ、こうして顔を合わすのは久しぶりだね」
門の反対側では、背を丸めた老人が待ち構えていた。ギョロリとした目をシムに向け、黄色い歯をむき出しに笑う。飛行船で話したあの科学者だ。シムの家族を、スコヤを奪った男。
シムの中で憤怒と憎悪が燃え上がる。想いで人を殺せたなら、今のシムは目の前の男を百回は殺しているだろう。家族が、スコヤが囚われていなければ、その思いの丈を思う存分ぶつけられた。それは出来ない。こんな気持ちの為に、家族も、スコヤも失いたくはなかった。
『元凶、排除、攻撃』
「大蟲、駄目っ!」
男に飛びかかろうと跳躍する大蟲を、シムは止める。大蟲はシムを見て不服そうに頭を回すが、シムが命令を撤回するつもりがない事が分かったのか、大人しくシムの頭の上に戻った。
シムは心の内を押し隠し、気取った仕草で髪を掻き揚げる。
「ええ、お陰で快適に過ごせたわ」
「それは良かった。今日は一つ、実験に付き合ってもらうよ」
男が身をどけると、部屋の中の様子があらわになる。左右の壁に詰まれた機材を職員が弄っている。その奥は壁一面を使った巨大なディスプレイが設置されている。ディスプレイはベットしか家具のない殺風景な部屋を、斜め上から映していた。
「スコヤ!」
部屋の中に居る人物を見て、シムは声を上げる。映像の中のスコヤはベットに寝転がり、時折欠伸をしながら、ぼうっと天井を見ていた。音声はないが、元気そうだ。
暫くすると映像の中でスコヤが立ち上がり、誰かを出迎える。画面の外から手に袋を提げたグレーンが映る。なにやら差し入れだろう、袋を手に入れたスコヤがしきりに頭を下げている。
良かった。酷い事されてないみたいね。
一瞬心を緩めたシムだがすぐに表情を引き締めた。隣に居るこの男が意味もなく、スコヤの様子をシムに見せるわけがない。
嫌な予感がする。
「……どういうつもり?」
「いや何、彼らにも実験に付き合ってもらおうと思ってね。あれを見てくれないかい?」
男が骨と皮だけとなった指をディスプレイの右上に向ける。
「〇・一エムピーエー?」
シムがそこに映された英数字を読む。
「チッチッチッ、違う。〇・一MPaと読むんだ。別名一気圧。あれは画面に映っている部屋の気圧を表示しているのさ。人間……いやあらゆる生物は常に一定の空気によって押されている。つまり一気圧の中で生きている。では、空気がなくなったらどうなると思う?」
シムの顔が青ざめる。空気がなくなると具体的にどうなるかなんてシムは知らない。だが、高すぎる山に登れば死んでしまう事や、空気がなければ息が出来ない事は理解できる。
「あなた、まさか」
「そのまさかさ。彼らを空気のない真空の世界へご案な~い」
男が愉悦に富んだ顔で言うと、周囲に居た職員が一斉に動き始める。
「エアライン接続」
「接続確認」
「バキュームポンプ起動」
「起動確認」
ピッと軽い電子音が鳴り、画面右上の数字が〇・〇九九に変わる。間をおかず、〇・〇九八、〇・〇九七と小さくなっていく。
「や、やめなさい! 実験にはちゃんと参加してるじゃない!」
「これも実験だよ」
シムが男の白衣にしがみ付いて叫ぶが、男は取り合わない。わずらわしそうにシムを払いのける。
「おい」
男の一声で、職員が部屋の隅から台車を押してきた。台車の上にはガラスケースが置かれ、その中には蟲とスイッチが入っている。蟲は大蟲の様に黒色ではなく、普通の透明な蟲だ。
シムは背後から男に肩を捕まれ、ガラスケースへ向わされる。耳元で男が粘ついた声で囁く。
「シリンダーの中にスイッチがあるだろう? これを押せば、気圧の低下は止まり正常に戻る。しかし、このスイッチは非常に脆くてね。外気に触れただけで壊れてしまうんだ。さあ、中にいる蟲にお願いしごらん?」
「そんなの出来るわけないじゃないっ!」
「やってみなくちゃ分からないだろう? 君の頭に乗る蟲と仲が良いんだ。案外、上手くいくんじゃないかな?」
男はシムから離れ、空いた椅子に座る。高みの見物とでも言うつもりなのか。
シムが男を睨みつけるが、男の顔からニヤついた笑みは消えない。寧ろ、より笑みが深くなった。
男は当てにならない。まわりにいる職員も助けてくれる様子はなかった。シムが何とかするしかない。
こうしている間にも、気圧は〇・〇六八と約二分の三まで減少していた。
シムはガラスケースに手を突くと、喉が枯れんばかりに叫ぶ。
「お願いっ! わたしの話を聞いて。お願いっ! お願いっ!」
何度も叫んでもガラスケースの中の蟲から返答はない。蟲はガラスケースの中を気ままに這い回っていた。
『要望、応答、要望』
大蟲も声をかけてくれるが、結果は変わらない。
悔しさと無力感からシムの視界がぼやける。目じりに溜まる熱いものをこそげ落とし、シムは必死に叫び続けた。
「〇・〇五二MPa!」
映像の中でスコヤとグレーンが、耳を押さえて倒れた。急激に低下する気圧に、身体がついていかないのだ。
「お願い。動いて、動いてよ」
「〇・〇三四MPa……危険域にはいります」
シムの目の前が真っ暗になる。蟲は幾ら呼びかけても、反応しない。
「ペースを落とせ。すぐに死なれたら困る」
気圧の数字が〇・〇三四で静止する。今も空気を抜き続けているのだろうが、先ほどまでの急激な数字の低下に比べれば雲泥の差だ。
映像は霜で覆われ、微かに見えるスコヤもグレーンも気絶していているのか動かない。
「お願い、わたしのお願いを聞いて、聞いて頂戴!」
ガラスケースに縋りつき、嗚咽交じりのお願いを繰り返すシム。男がその背中に向けて他人事の様に言った。
「このまま気圧が下がれば、血液が沸騰し死ぬね。まぁ、今のままでも低酸素症で死んでしまうだろうけど。どっちにしろ、急がないと二人とも死ぬね。ああ、死ななくても神経までダメージがいったら、まともな生活はもう無理か」
「あんた、そんな事になったら、他の職業兵が黙ってないわよ。仲間までやられて、黙ってると思うの!」
シムが一縷の望みをかけて、男を脅してみる。
「大丈夫。彼女の同僚、ドルトン君? 彼は今、ここに居ないから。後で上手く言えば誤魔化せるよ」
男は何にも考えてなさそうな様子で嘯く。
ああ、こいつ、実験が出来れば何でもいいんだ。
血の気が失せた。男は絶対に実験をやめない。この先も、実験の為に全てを玩具にする。例外はない。自分さえも玩具でしかない。そう言う狂気をシムは感じ取った。
「っっっ! お願い、動いて」
シムはガラスケースに向き直り、涙混じりに懇願するが、蟲は動かない。
恐怖で歯の根が合わなくなる。
スコヤを失う。
そう思っただけで、体中がまともに動かせない。今まで自分を救ってきたのはスコヤだ、とシムは思っている。大蟲と二人、何も分からないまま逃げていた自分に、スコヤはご飯をくれた。服をくれた。優しくしてくれた。そして、希望を見せてくれた。
スコヤが居たからシムは家族の元へ帰ることを目指せた。シムにとってスコヤは颯爽と現れた騎士だった。
その騎士がシムの所為で死ぬ。こんな怖い事はない。スコヤを殺してしまう、と思っただけで、胸の中に穴が明く。穴からじくじくと滲み出る思いは、シムを乾き凍えた世界へと叩き落す。
耐え切れなくなったシムは泣き出してしまった。
「ヒック、ヒク、スン、お、おね、お願い。スコヤを、グス、助け、ヒック、助けて」
ガラスケースに額を貼り付け、涙と鼻水で顔を汚して、願い乞う。
シムの心が奇跡を起したのか、それとも蟲の気まぐれか、はたまた最初から仕組まれていたのか。ガラスケースの中の蟲が動き出す。それまでの緩慢な動きが嘘の様な速さでスイッチに向い、自身の身を叩き付けた。蟲の溜め込んでいた塩水がガラスケースの中にはじけ飛ぶ。
「なるほど、なるほど。いやぁ、ありがとう。良い実験だったよ。アハハハハハハハハハハ」
科学者の笑い声が聞こえたが、そんなものはどうでも良かった。
泣きつかれたのか体中が鉛の様に重い。今すぐ、眠りたかった。
スコヤは?
シムは気力を振り絞って、ディスプレイを見上げる。映像の中でスコヤとグレーンが職業兵に担ぎ上げられていた。
「よか……た」
緊張の糸が切れたシムは、そのまま意識を手放した。




