水を吸い取る気はない
SIDE:SQUARE
大昔、人が空へ飛び立つ前、海は塩水だったそうだ。
毎日、海に出ては水の精製を行っているスコヤには信じられない事だが本当らしい。縦臼のモニタ越しに見える海一面が液体で、塩も水も取り放題だったのだ。
その時代に生まれていれば、スコヤの商売はさぞかし割りの良い物だっただろう。
「いえ、そんな良い仕事でしたら、僕にまわって来る訳がありませんね」
スコヤはまだあどけなさの残る顔を歪ませ、自嘲気味に笑う。
右足は小刻みにアクセルを調整し、右手でギアを入れ替えて縦臼を進ませる。スコヤの乗る縦臼が砂浜の上を舗装された道を進む時と変わらず、滑らかに前進する。まだあどけなさの残る少年だが、縦臼を操る腕前は大人顔負けであった。
スコヤの仕事は水売りだ。縦臼と呼ばれる巨大な車輪の乗り物に乗り、蟲を潰して取れた塩水を真水に精製する事で生計を立てている。限られた資源の中で、唯一、掃いて捨てるほどある水は、ありとあらゆる分野で利用されていた。
水売りは危険な仕事だ。蟲達は水分を貪欲に求め、自分達のテリトリーに入ってきた物体に牙を突き立てる。人も動物も機械も関係ない。その逞しく発達した顎を使いあらゆる物に牙を突きたて水を吸い取る。干からびて粉となった残骸だけが残った。
縦臼の密封性に問題が起きれば、その時点でスコヤは蟲達に喰われて粉となる。直径三メートル、幅八十センチの車輪は、棺桶と変わり、外周を埋め尽くす蟲達で蹂躙されるだろう。
まるで体中を蟲が蠢いているような気持ち悪さ。
「危険、気持ち悪い、きついの三拍子揃った真っ黒な仕事ですね」
スコヤは額を指先で叩きながら、憂鬱そうに愚痴る。
大昔は知らないが、人が再びこの星に降り立った時、既に海は蟲だったらしい。
体長五から八センチ細長い胴体に、毛の様に細い足が六本、頭だけがプックリ膨れている。透明な体には塩水がたっぷりと蓄えられ、熟れた果実の様にパンパンに張っていた。
数万、数億の蟲達が、何千、何万にも折り重なって蠢いている。その動きは素早く、ワイパーで掃いても掃いても、すぐにモニターを埋め尽くす。
何十と言う蟲達の目がスコヤを貫く。よく見ると透明な眼球に薄っすらと白と黒の二重円で描かれている事が分かる。どこか愛嬌のありそうだが、だからこそ、無数のその目で貫かれる気持ち悪さは筆舌尽くしがたい。
蟲の目から逃げるようにスコヤは視線を横にズラし容量計を確認する。精製の終わった水を溜めるタンクのメータは八割位の位置に来ていた。
「後少し、二十分くらいですか」
今日も生き延びられた、とスコヤは胸を撫で下ろし、すぐに気を引き締めなおす。まだ自分は海、蟲達の中にいる。これから二十分。その間に何も起きない保証などないのだ。
何度も上下に動くワイパーと、カサカサと素早い動きで埋め尽くそうとする蟲達の隙間から外の様子を探る。
右側には砂浜が、正面から左側には蟲達の海が広がる。正面の先には岩場が見える。河口近くだ。蟲達は河口から流れてくる水の吸い取りに忙しく、大地に牙を突き刺せないのだ。
「ん」
スコヤは眉を寄せる。河口付近になにか影が見えた。
「ゴミでしょうか? 面倒くさい事になりそうですね」
海辺のゴミ拾いも水売りの仕事だ。鉱物資源の殆どを空の彼方へ消費してしまった人類は、残された資源を欠片も無駄にする事ができない。無尽蔵にあるものなんてないのだ。ゴミが蟲達の中へ沈む前に回収しなくてはいけない。
スコヤはモニター脇についているつまみを回して、影の辺りを拡大する。
影は布の塊のようだ。青い部分が水の流れに合わせて揺れ、白い部分が中の詰め物のお陰でその場に留まっている。そして、白い部分から姿を見せる手足はどちらも擦り切れて血が滲んでいた。
「女の子! どうして?」
スコヤは目を丸くする。布の塊は女の子だった。青い部分は髪で白い部分は服だ。河口向って倒れている女の子に蟲達が徐々に間合いをつめていた。
スコヤは荒々しくギアを一段階下げると、アクセルを底まで踏み抜いた。縦臼の外輪が唸りを上げる。うねるようにスリップする外輪を絶妙なハンドル捌きで従えて、女の子目指して猛スピードで進ませる。
水の流れや蟲達のテリトリーの関係で、女の子のいる位置まで本来蟲達が登ってくる事はない。しかし今は女の子自身が河口の流れを変えてしまっている。急がなければ、女の子は蟲の餌食となるだろう。
「間に合って下さい」
ギアを一段、二段を上げるスコヤ。その顔には焦燥と恐怖が張り付いていた。
蟲、一匹一匹の吸いだす水分は多くない。だからこそ、悲惨だ。払っても払ってもまとわり付いてくる蟲達は、時間をかけて交代で水を吸い出す。血液だけではない。胃液や唾液、腸液は言うに及ばず、眼球や歯の中の水分まで全て順繰り奪っていくのだ。
水分のなくなった眼球の痒みに絶叫する声。歯がなくなった痛みで泣き喚く声。腹を押さえて苦悶する声。
スコヤは悲鳴の数々を思い出し、絶対に助ける、と心に誓う。
「間に合ってください!」
蟲の海から出たスコヤは、縦臼を左右に鋭くスリップさせて、側についた虫を吹き飛ばす。
目の前に岩場が見えてきた。アクセルを全閉、ギアを最低まで落とし、縦臼を横にする。スライドする縦臼に巻き上げられた砂で、モニターが埋め尽くされる。
シートやハンドルから受ける感覚だけを頼りに、軽くアクセルを繋げる。一瞬、浮き上がるような感覚を残し、縦臼は止まった。
スコヤはコンプレッサに残ったエアを全て出入り口から噴出させると、縦臼から飛び降りた。砂を巻き上げながら女の子に駆け寄る。
女の子の側まで来たスコヤは服が濡れるのも構わず、その場にしゃがみ込む。濃い空の様に青い髪、その隙間から見える肌は白く、頬や額等、あちこちに泥と垢を貼り付けていた。白いワンピースは水で透け、その奥に隠していた肌を浮かび上がらせている。
見た所、手の平や足の裏に擦り傷はあるが、それ以外、外傷はなさそうだ。スコヤはそっと女の子の唇に手を当てて、ほっとする。
「息はありますね。ですが、体が冷え切っています。急いで、家に連れて帰らないと」
そっと女の子の脇に手を入れて抱きかかえる。中肉中背のスコヤと比べ女の子は小柄で、簡単に担ぐことが出来た。全体的に肉が薄く軽い。抱きかかえた時も、胸のふくらみより、肋骨の感触が印象に残った位だ。
水の流れは女の子がいなくなったお陰で本来の流れに戻り、蟲達もまた、河口付近まで押し戻されていた。
スコヤは女の子を慎重に縦臼まで運び、そこでムゥと唸る。
縦臼は基本、一人乗りだ。一応、補助座席があるが、それは意識がある人間用であり、固定器具の様な気の効いたものはない。
衰弱している女の子を押し込めるには忍びない。
「抱えるしかありませんね」
スコヤは女の子を抱えたまま座席に座り、自身の膝上に女の子を優しく降ろした。女の子が目を覚ます様子はない。荒く湿った吐息がスコヤの胸元をくすぐる。
風邪だろうか、とスコヤは少女の額に手を当てて熱を測る。掌に広がる温もりは若干スコヤのそれより高いように感じたが、子供の高い体温を考慮に入れれば平熱の範囲だろう。
不意に少女の胸元が膨らんだ。その肢体には不釣合いな程膨らみ、またペッタンコになる。
「はい?」
目を丸くする。胸のサイズが変化するなんて、全人類の女性が殺してでも奪い取りたい奇病にかかっているのか。いや、流石にそれはない。質量保存とエネルギー保存の法則を打ち破る技術は、人類にはなかったはずだ。
では何が?
スコヤが眼を凝らして少女の平坦な胸元を凝視する。少女の襟元から、白いワンピースを蠢かせ、黒い丸が現れた。黒い丸には白と黒の二重円が二つ、その下には大きな牙を持った口が黒い丸と同じ大きさで開いていた。
「蟲っ!」
スコヤが叩き潰そうと手を振り下ろすが、手首に衝撃を受けて悶絶する。
「何が?」
真っ青になった手首を反対の手で押さえつつ、再度少女の胸元に目を向けると、蟲がいない。何処に、と探す視界の端を黒いものが通り過ぎる。
スコヤの背筋が凍る。本来蟲の動きはゆったりしたものだ。水がテーブルの上を広がるような速さでしか動けないはずだ。しかし、今見た蟲の動きはそんなものではなかった。昆虫相手のような瞬発力。目で追うのも難しい。それはとりもなおさず、蟲の牙を避ける事ができないという事だ。一回噛まれて取られる血液は微小だろう。だが、それが何度も繰り返されれば、致命傷となる。この場から逃げても、すぐに追いつかれるだろう。
完全に終わりましたね。思えば、無味乾燥とした十四年間でした。
スコヤはシートに体重を預け、力を抜く。抵抗しても無意味なのだから抵抗する気はなかった。瞼は閉じない。死んでないだけの人生でも、終わりをありのまま受け入れる矜持は持っていたかった。
蟲の牙が自身の身に食い込む瞬間を今か今かと待つが、一向に襲ってくる気配がない。
どうしたのでしょう?
スコヤがいぶかしむ。その疑問に答えるように黒い蟲が正面に現れた。蟲はその凶悪な牙を口の中に隠したまま、スコヤをジッと見つめていた。いつまでたっても蟲は襲ってくる様子がない。
「僕から水を吸い取る気はない、と言う事でしょうか?」
正面に居座る蟲に尋ねるが答えはない。だが、襲ってくる気配もなかった。
当面は大丈夫そうだ、と幾分落ち着いたスコヤは、自分が女の子を助ける途中だった事を思い出した。腕の中で眠る女の子は寒そうに身を捩り、スコヤにしがみついてくる。
この子をこのまま放置したら、罪悪感がどうしようもなくなりますね。目の前に居る黒い蟲は後回しです。
スコヤは縦臼のハンドルを取ると、進路を自宅に向けて走り出した。正面ディスプレイの上を陣取る蟲は相手にしない。襲われたら死ぬしかないのだ。警戒しても仕様がない。