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理恵子姉さんと生活することになってしばらく経ったある日、実家からパソコンが届いた。
いざネットをしようとして理恵子姉さんに『ここってネット通じてますよね?』と軽い気持ちで聞いたら、『ネット? えーっと……通じてないわよ?』とさも当然のように切り替えされてしまった。
「ね、ネットが通じてない!?」
「ごめんね、ここ田舎だから。隣町に行けば繋がるみたいなんだけど……」
「は、はぁ……」
しかしネットがないのは思った以上に痛手だった。
引きこもりである俺の唯一時間潰し道具であったし、それが自分の世界全てでもあったからだ。
しかし嘆いたところでないものはないし、自分の家ならまだしもお世話になっている人の家で文句は言えない。
ネットとという世界を失った俺は、毎日理恵子姉さんの手伝いをしたり、理恵子姉さんが仕事で留守の時には料理を作ってみたり、縁側でぼーっと日向ぼっこをしてみたりと、引き籠っていた時と大して変わらない、いつも通り生産性のない毎日を過ごしていた。
そんな実家での生活とほとんど差異のない日々を送るうちに、このまま変わらないのだろう、そう思い始めていた。
しかしそんな引き籠り生活はほんの一ヵ月も満たずに終わりを告げることになるのだった……。
◇
「ただいまー、ふぅ、暑かったぁ……」
越してきてから一月ほどがたったある日の夕方、いつものように仕事帰りの理恵子姉さんが帰ってきた。
ちらっと時計を見ると7時36分を指していた。
いつもより30分ほど遅く帰ってきたみたいだけど、たぶん買い物でもしてきたんだろう。
理恵子姉さんは買い物袋であろうビニールを擦らせる音を鳴らしながら、リビングでテレビを見ていた俺の方まで来た。
「ただいま、いい子にしてた?」
「あ、はい、お帰りな――」
お帰りなさい、そう言うつもりだった俺の口は理恵子姉さんの手元をみることによって途中で止まってしまった。
なぜならば理恵子姉さんの手には透明なビニールに包まれた下ろしたての学ランがあったからだ。
「……それ、どうしたんですか?」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
たぶん顔も同じように冷めた顔をしていたと思う。
「なにって、これ透利くんの制服よ?」
しかし理恵子姉さんは俺の言動を気にも留めず、さも当然のように言い放った。
「俺、学校にいくつもりなんてありません」
「そう……。透利くんがそう考えるのはもっともだと思うわ」
『でもね……』と理恵子姉さんは続けると、俺の真正面に正座するとこちらを射抜くような目で見つめ返してきた。
「ほんとうにこのまま誰かに頼ったままで生きれると思うの? 私や兄さん、義姉さんが死んでしまったらあなたはどうするつもりなの?」
「どうって……って、それは……」
視線を合わせるのが辛くなり、俯いてギリッと奥歯を噛みしめる。
そんなことわかっている……。このままじゃ駄目だってことぐらい……。
誰から言われなくても十分わかってる……。
「今は私や兄さん達がいるかもしれない。でも私達がいなくなってしまった時、透利くんは本当に独りになってしまうわ」
「そんなの、わかってますよ……」
「いいえ、わかってない。本当にわかっているのなら、今のように家にずっといたりしないでしょ? それに――」
「わかってますって! いずれ俺は独りになるってことぐらい! 理恵子姉さんに言われなくたって理解してるつもりです! そうなった時に独りでも暮らせるような生活力を身に付ければいいんでっ――!?」
パンと渇いた音が響いた。
痛い……。
右頬を触ると熱かった。
打たれたんだそう気づくまでに数秒はかかった気がする。
ぶった理恵子姉さんに言い返そうと視線を戻すと、頭の中で考えていた反論の言葉が消えた。
理恵子姉さんが泣いてる……。
「透利くん、私は……、私は憎いわ……! 透利くんにこんな悲しいことを言わせるようにしてしまった子達が! 透利くんの夢や、希望を奪った子達が……」
理恵子姉さんは俺の頬に両手を添えた。
「だってそうでしょ? 私はね透利くん、透利くんが毎日私に負担をかけないように出来る家事を全てやってくれてるのを知ってる。おはよう・いってらっしゃい・おかえりなさい・おやすみなさいってキチンと挨拶してくれてるのも知ってる。私が疲れて帰って来て愚痴を言ってしまう時も嫌な顔をせずに最後まで私の話を聞いてくれるのも知ってる。他にもいっぱい透利くんのやさしいところをたくさん知ってる……。こんなにも……こんなにもやさしい所がたくさんあるいい子じゃない……」
理恵子姉さんは頬に添えていた手を俺の背中にまわすと抱きついてきた。
「だからね透利くん……あなたには幸せになって欲しいの。あなたをそうしてしまった人達を見返すことができるような実りの多い人生を送って欲しいの。誰の為でもない、透利くん自身の為に……」
俺自身の為……?
こんなゴミのような俺の?
臆病者で、死ぬ勇気もない、引き籠るだけで精一杯。
そんな俺が人生をやり直して何か意味があるのだろか……?
もう誰にも必要とされてないと言うのに……。
家族だって、学校の先生だって、友達だって、部活の先輩だって、誰一人として俺を必要としてないのに……。
「そんなこと……ないわ」
いつの間にか俺は心の中の事を吐露していたのか、理恵子姉さんはいっそ強く俺に抱きつくと、ゆっくりと、だけど力強く俺の言葉を否定した。
「そんなことは絶対ない。だって、私が必要としているもの。透利くんが居てくれる、それだけで、どれだけ救われていることか……」
理恵子姉さんが俺を……? こんな無価値な俺を……?
極寒の、気を抜けば凍え死んでしまいそうな冷えきった寒い部屋にいた。
ずっと、俺が引きこ籠るようになってからずっと……。
俺は一生ここで独り、身を縮こまらせながら死んでいくんだ……そう思っていた。
でも、どうだろう?
俺は再びこの凍てついた扉の向こう側へと行けるのだろうか?
この冷たい部屋の扉はとても堅い、鍵が掛っている以前に“固まって”いるのだ。
ただ……、ほんの少し、ほんの少しだけだけれどもその扉に亀裂が入った気がした。
「俺は……」
目の前が滲む。
何とも言えない気持ちで一杯になり、震える手で理恵子姉さんを抱きしめ返した。
どうして、どうしてこんなにも心が温かいのだろう……。
もう何も感じることもないと思っていたこの心が……。
そうして俺は何時ぶりか分からない涙を暫くの間、理恵子姉さんに抱かれながら流した。
◇
「理恵子……姉さん、俺学校に行ってみようと思います……」
ひとしきり泣いた後、震える声を振り絞りながらそう告げた。
理恵子姉さんは短く『うん……』と返すと、顔は見ることができなかったが抱きしめる力が強まった気がした。
正直、死ぬほど行きたくない。
学校に行く事を考えると胸がぎゅっと締め付けられるような感覚がするし、おまけに吐き気や頭痛までする。
でも俺を必要としてくれる理恵子姉さんがこんなにも涙を流してくれて頼んだんだ、これで断るなんて俺にはとてもできない。
こうして俺は再び人生をやり直す為、学校に行くことを決意した。
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