第7話 <雨河くんと力比べ>
孝樹は四月一日に力をこめる。対する壮汰は不思議なステップを踏み始めた。
「本当に本気でいくけど良いのか?」
「当然だ、そのためのユニフォームだからな。では行くぞ」
言い切ると壮汰は勢い良く走り出した。無論孝樹も走り出す。中庭の広さは闘うのに十分な広さであるので走っても二、三歩でお互いがぶつかるようなことは決してない。二人はどんどん間合いをつめていく。そして孝樹は四月一日を小手調べに振り払う。壮汰はそれを避ける仕種も見せず、左足で受け止めた。これには孝樹も驚いてしまった。一方壮汰は声高らかに笑っている。
「甘いぞ孝樹!言ったじゃないか、戦闘ユニフォームだって。無論守備も出来るぞ。それに」
驚いていた孝樹に壮汰は全力の回し蹴りを仕掛けた。咄嗟のことだったが孝樹はそれを四月一日で間一髪防いだ。しかし彼は壮汰の回し蹴りに力で押し負け、紗美からわずか1m程の位置に飛ばされてしまった。背中から腰にかけて痛みが走る。
「お前、それなんだよ、マジで」
「ん?決まっているだろう。サッカー部部長として最も力の出せる装備だ。今の時代、世の中は物騒だからな」
「てか、既にお前自体が物凄く物騒なんだけど、つか何か変だ」
「ん?コレを作ってくれた人は変わり者だったが、素晴らしいサイエンティストだったぞ」
「手作りかよっ!それに科学者が作ったんかい!じゃあその攻守の均衡を保つモノもか?」
「そうさ!なんでも衝撃で硬さを変える素材らしいぞ」
「なっ……だとしたら威力は壮汰の脚力だけだと言うのか」
「もちろんさ、サッカー部の脚力をなめてもらっては困る」
「そうか、なるほどな。もう一回やろうぜ。今度は始めから本気でいく」
壁伝いに立ち上がり、孝樹は言った。紗美はそんな彼が心配になったが、その顔に微笑みが浮かんでいるのに気づき、見守ることにした。
そして孝樹と壮汰は再び向かい合って戦闘態勢に入った。そこで紗美はあることを思い出しておもむろに孝樹の携帯電話を取りに行った。その間にも二人の勝負が始まろうとしていた。そして彼女が戻ったのとほぼ同時に二人は走り出した。
孝樹の四月一日と壮汰の両足が何度も激しくぶつかり合う。体力においても技においても二人とも引けをとらない。その様子を見ながら紗美は無断でアドレス帳を開き、ある人物の名前を探していく。
そして見つけるとその人物に電話を掛け始めた。そのことに孝樹は全く気づいていない。
しばらくして相手が出たのか、紗美は話し始めた。どうやら相手は藤隆透のようだ。
「もしもし藤隆さん?雨河孝樹の電話ですけど、今暇してます?えっ私?私は孝ちゃんの幼馴染み。それで今孝ちゃん家で白熱した模擬試合が繰り広げられてるんだけど、来ません?……じゃあ待ってますね」
二分ほどで主旨を伝え、彼女を呼び出した。紗美はこういう悪巧みのようなことをする時は人一倍努力する。
紗美は電話を自分の左側に置くと再び二人の勝負に集中した。
勝負が始まってから十分以上経っているにもかかわらず、二人とも全くといって良い程息は上がっていなかった。むしろ二人とも目の輝きが増している。気のせいか攻守のきり返しも少しずつ早くなってきている。壮汰はもちろん孝樹も相手に対して容赦はしない。そして二人の攻撃方法も先程の和やかな雰囲気とはうって変わって、より激しくなっていた。
孝樹は四月一日をまるで体の一部のように自在に操り、“村雨龍碧流”が造り上げてきた歴史ある型を次々に繰り出していく。対して壮汰は自分で編み出したらしい蹴技を繰り出し、孝樹の攻めに対抗している。
この二人の強さって並じゃないわぁ、と紗美が思っていると玄関のベルが鳴った。どうやら透が来たようだ。
紗美は腰を上げて玄関に向かっていく。すると玄関越しに影が見える。しかし、影は一つではないように見える。
「はーい、どちら様?」と少し不安な気持ちで尋ねる。
「藤隆透でござる、呼ばれたので参上したでござるよ?」ととても可愛らしい声が聞こえてきた。
紗美は藤隆透と聞いて安心した。そして玄関の扉を開けた。するとやはり透以外にも四人、紗美の知らない顔がそこにいた。
「ども、お初にお目にかかります。わいは東山昴って言います。よろしゅう」四人の内の一人が陽気に言った。
「北条菜奈と申します。宜しくお願いします」とても綺麗な銀髪の女性が言った。
「わしゃ南雲恭じゃ、よろしく頼む」茶髪の青年が言った。紗美は彼の頭を見て第一印象が“癖毛の変わり者”と決まった。
「西谷権郎……よろしく」黒髪の大きな男性が言った。
「よ……よろしく」
そう挨拶しつつも彼女は、すごく個性豊かな人たちだなー、と思っていた。その時透が口を開いた。
「あの……なんでも模擬試合をしてると聞いたのでござるが……」
それを聞いてハッとなった。そういえばそうだった。それを口実に呼んだっけ。
「そうね。そっちからまわってもらうと今闘ってると思うからどうぞ」と少し焦り気味に案内をした。
すると五人は、分かった、と言ってそちらに歩いていった。紗美は皆が出ていった後、鍵を掛けてリビングの方に向かった。
リビングに入ると中庭の二人が激しくぶつかり合う音が聞こえてきた。紗美は真っ直ぐ先程まで座っていた所まで行く。そこから顔を覗かせると二人から離れた隅の方に五人が見えた。孝樹たちは闘うことに集中し過ぎて彼女たちに気づいていないようだ。
紗美は体を出してこっちに来るように五人を促した。五人もそれに気づいたのか、二人の乱闘の合間をぬって紗美の所へ。そして紗美を入れた六人はリビングを背にして孝樹たちを眺め始めた。それでも二人は全く気づいていない。
紗美は二人を見ながら時折、隣に並んでいる透と菜奈に視線を向けた。その二人は孝樹たちの試合に目を輝かせている。恐らく他人にはこの姿が強い師匠への尊敬の念が籠った視線に見えるだろう。しかし紗美にはこれが違うように見えた。
二人の視線が明らかに異性を、しかも好意を寄せる人に対するものに見えた。さすが孝ちゃん。きっと孝ちゃんは気づいてないみたいだけど、モテモテね。負けてられないわ、と改めて決意を強くした。
その時だった。目の前で繰り広げられていた勝負に決着がついた。そこに立っていたのは孝樹であった。
「さっすが孝樹やな、動きのキレがええわ」
「じゃがあのサッカー少年もなかなかじゃき、並の人間じゃなか」
「そうでありますね、あの孝樹さんと互角とは驚きであります」
「…む…強いな……面白い……」
「あちらのサッカー部っぽい方もすごいでござるが、やっぱり孝樹どのの方がすごいでござるなぁ」
村雨龍碧流の門下生である五人が感心の声を上げた。そこでようやく紗美以外に人が増えていることに孝樹は気づき、そちらに近づいていった。負けて倒れていた壮汰もいつの間にか起き上がり皆のもとに近づいていく。
「よーお前ら来てたんか、どした?」
「どした、ではないでござるよ。お二人が模擬試合を行っていると聞き、我々も参加しようと思って参ったでござる」
「そっかー、んじゃ皆でやっか。ただ俺たちはいったんきゅ…う…けい……」
バタリ。孝樹はそう言うとリビングに倒れ込んだ。隣に居た壮汰も同じようにバタリと倒れてしまった。どうやら勝負に熱くなり過ぎて軽い熱中症になってしまったようだ。それを見て周りに居た五人は固まってしまったが、東山昴、彼だけはいつもと変わらずに、
「これまずいんちゃうか?水分与えたらんと死んでまうで?」と言った。
その言葉で他の五人も我に返り、紗美は走って水を取りに行き、他の五人も各々が出来ることをした。事態が落ち着いた頃には孝樹と壮汰は元気になっていた。ただ一つ残念なことがあった。もう既に日が落ちかけていたのだ。皆が揃っているリビングには地平線に沈もうとする太陽の申し訳程度の光が差し込んでいる。
「すまなかった。俺たちのせいで折角の模擬試合を中止にしてしまった」
「僕もすまなかった。今後は気を付ける」二人が揃って謝った。
その場にいた皆は二人を見て、そんな気にすんな、と言わんばかりに笑っている。するとまた昴が口を開いた。
「わいらはそんなん気にせーへんよ」
それを合図に他の皆も頷く。その時紗美がまた何か思いついて、
「そうだ、明日はまだ日曜日なんだし皆泊まってけば?そうすれば起きてから1日中試合出来るよ?」と言った。
孝樹は一瞬四天王の男子二人(もちろん昴と恭だが)の顔色が変わったような気がしたが、
「それは良い考えだな、どうかな皆、泊まってく?」と一同を見渡して聞いた。
すると四天王の男子三人は「泊まっていきます」と言った。しかし北条菜奈と藤隆透は迷っていた。二人は互いの目を見て後ろを向き、ひそひそと相談をし始めた。そして結論に達したのか振り返り、何故か孝樹をしっかり見て、
「私たちも泊まりたいであります」
「私たちも泊まりたいでござる」
と二人は綺麗にハモって言った。こうして今日は雨河家に大人数が一泊することとなった。
優華は下の騒がしさに目を覚ました。ゆっくりと外を見ると真っ暗になっていた。まだ半分寝ぼけていたが、彼女は孝樹の布団から出ると扉を開けて廊下に出た。そこで彼女は不思議に思う。
どうして今日はこんなに五月蝿いの?明らかに四、五人位いそうな雰囲気じゃない。
彼女は恐る恐る階段を下りていく。そしてリビングの扉に手を掛けようと腕を伸ばした瞬間、反対側から誰かが扉を開けようとノブを回すのが分かった。優華は扉にぶつからないように一歩後ろに下がった。
それと同時に扉が開き、そこには……彼女の見知らぬ同い年位の男子が立っていたのである。
二人の間に沈黙が流れる。そして優華の怒鳴り声が烈火の如く家中に響き渡った。
「あ……ああっあんた誰よ!他人の家で何してんの!?」
優華も動揺していたが、相手も動揺していた。しかし彼は優華のように怒鳴りはしないものの、
「君こそ誰?ここで何してんだ?」と言った。
その怒鳴り声に驚いて家の中のいたる所で作業をしていた皆も続々と集まってくる。優華には何が何だか分からない。すると台所の方から孝樹がやって来た。紗美と壮汰も一緒だ。そんな三人を優華は問いただすような目で睨む。
三人の頭の中では綺麗に思いがシンクロしていた―優華に言うの、忘れてた―と。
「ごめんなさい」三人は同時に頭を下げた。
優華はその容姿に全く似合わない、まさに力強い猛獣のように他の人たちを牽制しながらリビングのソファーに腰を下ろす。
そして彼女は寝起きのイライラも重なり、世界最凶のオーラを背中から出し、今にも咬みつきそうな勢いで自分が眠っている間に起きた事を皆に聞き始めた。孝樹たちはその一言一句にトゲのある言葉を聞きながら、相手をこれ以上怒らせないよう、細心の注意をして話した。
全てを聞き終えた頃には優華のイライラも収まり、普段とさほど変わらない、どこか気高い様子の顔になっていた。
彼女は大きな溜め息をついてポツリと、お腹空いた、と呟いた。その言葉に他の皆も同意見だった。
「せやな、皆サクッと終わらせて飯にしよーや」
「そうでござるなー、お腹減ったでござるー」
そう言う二人の言葉を合図に皆は自分たちの持ち場に戻っていく。残されたのは孝樹と優華だけだ。
「じゃあ優華はテレビでも見ててくれ、すぐ作るから」と台所に向かおうとすると、
「ちょっと話したいことがあるからついて来て」と優華が何故か孝樹から顔を背けて言った。
彼女の頬を見るとほんのりと赤い気がするのだが……
孝樹は優華に連れられ二階に行った。右に曲がるかと思いきや、当然のごとく彼女は左に曲がる。彼もそれにならい左に曲がる。正直なところもう諦めていた。二人はそのまま目の前の部屋に入っていった。1号室、俺の部屋だ。
中に入ると慣れた手つきで彼女は電気のスイッチを入れた。二、三度点滅したが、その後はしっかりと部屋の中を明るく照らした。
優華は部屋の中心まで進み、孝樹に扉を閉めるように促した。孝樹は扉を閉め、優華の前に進む。優華はそれを見てようやく本題に入った。
「まだ言ってなかったわね、おめでとっ」下を向き、顔を赤くしてとても小さな声で呟いた。
それを聞いて孝樹はとても驚いた。そして何故だか一番嬉しかった。
「あっありがとな」何だか照れ臭くなって俺もそれだけを言って下を向いた。
しばらくして孝樹と優華を呼ぶ声が聞こえてきた。声の主は紗美のようだ。孝樹は顔を上げて下を向いて固まっている優華の左手に恐る恐る自分の右手を繋ぐ。
すると彼女は顔を上げ、まだ少し紅潮気味だった頬をさらに赤くしている。
孝樹は笑って、行こう、と言い、彼女の手を引っ張った。彼女もそれを拒まずに引かれるまま孝樹の隣に立った。
そして二人一緒に孝樹の部屋を後にした。
リビングに入ると美味しそうな香りが部屋一面に漂っている。そしてソファーは壁一杯に退けられ、以前借りた大きな机が部屋の中央に置かれ、その上にはまるで豪華な外国料理にも匹敵しそうな程の料理が所狭しと並べられていた。
更にその周りには皆が座って待っていた。皆は孝樹たちに気づくと道をあけ、二人を上座に誘った。
二人が座ると壮汰と紗美がその場にいる全員のコップにオレンジジュースを注いでいく。孝樹にはこれが異常だとすぐに分かった。いくら友人が遊びに来たからといってここまで盛大にはしないだろう。すると、
「えーと、それでは皆さんコップを持ってください」
壮汰が立ち上がり話し始めた。彼以外の皆は目の前に置かれたコップを持ち、次の壮汰の言葉を待つ。そんな皆をぐるりと一度見渡して、
「じゃあいくぞ?えー孝樹の師範就任を祝して……カンパーイ」と言った。
その声に次ぐように皆も、カンパーイ、とコップを当て合う。一応孝樹もそれにならうが未だ状況把握が出来ていない。
それに対し、優華はこの空気に順応している。それから時間が経つにつれて孝樹も理解していき、ゆっくりと立ち上がる。
「皆ありがとな。すっげーうれしいよ」と感謝の気持ちを述べた。
皆もそれぞれに返事を返してくれた。それからはより盛大に盛り上がった。こういう時、やはり関西人や明るい子どもがいると随分と助かる。場の空気を一定に保ってくれるのだ。
そうして騒いでいると孝樹は時計に目を向けた。時計は十時を五分ほど過ぎたところだった。
孝樹は皆に向かって、
「なー、もう十時だけど風呂どうするよ」と言った。
「せやなー、わいらはまだ騒いどりたいから女子らお先にどーぞ」
「そうだな、藤隆たちから入ると良い。眠っても良いように」
「んー、そうするでござるよ。菜奈どの一緒に入りましょう」
「え?はっはい、分かったであります。では行きましょう」
二人はリビングを後にした。内心孝樹はまた覗き事件が起きないかヒヤヒヤしていたが、その傾向が見られなくてホッとした。その時壮汰が立ち上がった。孝樹が、どうした?と聞くと壮汰は、片づけをする、と皿を運び始める。他の皆もそれを手伝おうと皿を持って行こうとする。しかしそれを孝樹が止めて、
「すまん、ちょっと三人は俺を手伝ってくれ」と優華、紗美、昴を呼んで二階に向かった。
残された南雲と西谷はお互いに目が合って、
「あーわしらも片づけるとするかのう」と南雲が言った。しかし、
「…偽土佐弁……止めろ…」とその重圧のある声で切り捨てた。
「ごっごめん…」
二人の間には沈黙が流れ、そのまま食器を持って壮汰のもとに運んでいく。壮汰はそれを受け取り手早く洗っていく。そのためか、二人の澱みきった様子には全く気づかなかった。
一方二階に上がってきた四人は男女二組に別れて四号室と五号室の前に立っている。女子組が四号室、男子組が五号室だ。
「よし、じゃあ頼んだぞ」と孝樹が言うと、
「了解」と皆は返して自分たちの前にそびえる扉を開け、中に入っていった。
孝樹は壁伝いに電気のスイッチを探して部屋の明かりを灯す。部屋の中は殺風景で棚と袋に入った布団、箪笥位しか置かれていなかった。それでも十分揃っているわけなのだが……
その時、部屋の中に夏の暖かさを含んだ風が壁を這うように流れてきた。どうやら昴が窓を開けたようだ。
「お!良い風入ってくるやん。少しは掃除しやすうなると良いねんけど」とこちらを振り向く。
その顔には、次は何したら良いんや、と聞くような表情をうかがえる。孝樹は辺りを見て掃除道具が何も無いことを思い出した。孝樹は、ちょっと待っててくれ、と手で表現して廊下に出た。すると四号室からも誰かが出てきた。それは優華だった。
「どうした?そっちも掃除道具無かったのか?」
「そうよっ。ったくあの女め、いきなりジャンケンし出して、グー出したら負けちゃったわ」
何となく可哀想に思えてくる。孝樹は優華を連れて道具入れに向かった。道具入れは玄関の近くにある。そして階段と玄関の間にはトイレとお風呂が在るわけで……
廊下を歩いて行くとお風呂の中の声が聞こえてきた。
「透ちゃん意外に胸大きいでありますな」
「そっそんな事無いでござるよ」
「あるでありますよ、ホラホラ~」
「やっ…やめてほしいでござるよ、くすぐったいでござるぅ」
二人は足が止まって完全に聞き入っていることに気づいた。思わず目が合ってしまい、顔が赤くなっていくのが二人とも分かる。お互いの顔から目を反らすと二人は何も言わず、と言うか言葉が何も思い付かないのだが、早足で掃除道具を取りに向かった。
そこでも二人は何も言わない。それどころか目も合わせない。気不味すぎるのだ。二人はそのまま自分たちの持ち場で使う物を手に取り、元の部屋に戻っていった。部屋に入ると待っていた昴が孝樹に目を向けた。
「どないしたん?何か顔赤ないか?」不思議に思った昴が聞いた。すると、
「いや、何でもねぇ。さっさと片づけちまおう」と孝樹は雑巾を手にして返した。
「俺が拭くから昴はこの箒で部屋ん中掃いてくれ」ともう片方の手で箒を取り、昴に差し出すと、
「了ー解。ほなサクサクッとやっちまおうや」と彼は扉の方から窓に向けて掃いていく。
孝樹はそれを見てから棚や箪笥を拭き始めた。建て直して日が浅いせいか積もるほどの埃などはとくになかった。そして拭き終わると孝樹は袋に入った布団に手を掛けた。中には二人分のセットが入っている。孝樹は掃き終わって窓際で外を眺めていた昴を呼ぶと二人で布団を床に敷き始めた。すると疑問に思ったのか昴は口を開いた。
「なぁここにあんの二人分やろ?わいら男三人やで?一人余るやろ」
無論孝樹にだってそんな事は分かっている。孝樹はふっと笑って、
「一人は壮汰と同じ部屋だよ」と言った。
しかしそれについての反論が返ってこない。孝樹は不安に思いながら彼の顔を見た。その目には光が宿っていない。
「そっそんなに気にすんなよ、何もお前がそうなるって決まったわけじゃねーんだし」
「そりゃそうやけど、こういう時って大抵わいがそうなるノリやん」
昴は顔を真っ青にして震え始める。そこまで拒絶される壮汰が可哀想に思えてきた。その時部屋の扉がゆっくりと開かれた。そこから小動物のような小さな顔が二つヒョコッと首を出した。
「孝ちゃんたち終わった?」
「こっちは終わったわよ、はぁ疲れた」
そう二人が言った。孝樹は二人の方を向いて、すぐ終わるから先片付けて良いぞ、と言って仕上げの掛布団を敷布団の上に被せる。優華たちはそれをみて、分かったわ、と下におりていった。二人を見送ると昴が口を開いた。
「しかしあれやなぁ、なんちゅうかこう平凡過ぎて退屈やな」
すると孝樹は溜め息を漏らし、呆れたような目で昴を見る。
「お前、まだまだだな。この平凡の素晴らしさが分からんとは」
まるで何かを悟った仙人のような声を出す。この数ヵ月間をここで過ごしていない昴は不思議そうな顔をした。その顔を見て、やれやれ、と孝樹は首を振り、窓から月光に照らされた近隣の民家を眺める。そんな姿を見た昴には余程の苦労があったことが一目で分かった。彼は小さな声で、すまなかったな、と呟いた。
「気にする必要はねぇーよ」と孝樹は笑ってそれに応えた。
二人は部屋を片付け終えて下におりていった。そして道具を片付けにいくとお風呂の方から声がした。小さくて聞き取りづらいがどうやら優華と紗美が入ってるようだ。孝樹は特に気にも止めず、その場から立ち去ろうとする。しかし昴は足を止めていた。
孝樹が振り返ると昴は頬を少し紅くして時折お風呂場がある方の壁をしきりに気にしている。孝樹は彼に近づいて優しく肩を叩くとようやくこちらに気付き、素知らぬ顔でリビングに向かい歩き出した。二人がリビングに入ると皆はソファーに座り、テレビを観ていた。
壮汰も普通に座っていた。その壮汰は下りてきた二人をチラッと見て、
「もう準備出来たのか?」と言った。
二人は同時に頷いて近場に腰を下ろした。そこで初めて透が眠っている事に気づいた。小さな寝息をたてている。よく見ると優華のパジャマを着ていた。透によく似合う黄色の生地に青色の星が散りばめられている柄だ。孝樹は疲れた体を奮い立たせて彼女の前に立った。そして彼女の背中と膝に腕を入れ、抱える。そこで隣に座っていた菜奈に向かって、
「ちょっと運ぶから先導してもらって良いか?」と尋ねた。
「はっはいであります」少しビクビクしながらも菜奈は立ち上がり、二階に向けて歩き始めた。
菜奈は孝樹の前を歩きながらもどこか嬉しそうに笑っている。つられて孝樹も口元が弛んでしまう。こう言う時に見せる顔はとても幼く見えた。二階に上がっていくと菜奈が迷う素振りを見せた。孝樹は、四号室だ、と透を落とさない程度に四号室と描かれた扉を指差した。菜奈は指差された扉を見て頷き、その扉の前まで進み、ゆっくりと開けた。
中は丁寧に片付けられており、孝樹たちが片付けた部屋よりも一層綺麗になっていた。案外あの二人は良い組み合わせだったかもな、と考えながら菜奈と共に中に入った。菜奈は電気をつけようとしたが、孝樹はそれを制した。電気をつけると透が起きてしまうかもしれないからだ。
そして孝樹は布団の方に目を向けた。菜奈もその視線が何を言いたいのか分かったようで、布団を捲ってくれた。そこへ孝樹はゆっくりと優しく透を下ろした。透は小さく声を漏らしたが、再び夢の中へと落ちていったようだ。
一段落ついて思わず息が漏れる。それが聞こえたのか、近くで立っていた菜奈が小さく笑った。彼は不思議に思って彼女を見た。一瞬目が合って彼女は、ごめんなさい。何だか優しいお父さんに見えたでありますと少し微笑んで言った。孝樹はそれを聞いて、確かにそうかもしんねーなとこちらも微笑んで言う。今の雰囲気はたぶん今日一番の穏やかさだ。こんな時間が続くと幸せだな、なんて孝樹が思っていると頭の中に不思議と優華と紗美がすぅっとよぎった。彼の心は途端にマリアナ海峡の海底に着くほど沈んでいった。何故なら彼は平和が永く続かないことを知っているから。
現実に戻され溜め息一つ。彼は立ち上がると、下に行くかと入り口に足を向けた。
その時孝樹は彼女に手首を掴まれた。彼の目は自然とその手首に向かう。それからゆっくりと上がっていき、彼女の顔が目に入った。その顔はまるで何か重大な事を決めた時のような真剣そのものだった。孝樹の顔からも今までのような和気藹々さが薄れ、次第に真剣な顔つきへと変わっていく。すると彼女は意を決したように、
「実は私、…その…えーと…孝樹さんが好きなんでありますっ!」と小さな声で言った。
その時孝樹の思考が停止した。代わりに彼女の言った“すき”という言葉だけが反響していた。それが収まると孝樹は口を開こうとした。しかしそれより先に彼女が、返事はまた今度でいいでありますからと部屋を飛び出していってしまった。彼も後を追いかけようとして廊下に出たが、もう彼女は既にいなかった。溜め息をつき、透の眠る部屋の扉を閉める。そこで孝樹は“彼女たち”を目にした。
“彼女たち”は孝樹たちから見えない廊下の奥に潜んでいたようだ。二人とも座り込み、孝樹の方をジト目でじっと見ている。正直恐いよ。
「なっななな何してんだよここで」動揺が隠しきれない。
「別に何も?」どこかトゲのあるような言い方をする紗美。
「あんたには関係ないわよ、グズ」明らかにトゲのある言い方をする優華。
つまり二人に共通するもの、それは明らかに“怒り”である。そして言い終えた二人は心からとはとても思えない笑顔。これはマズイ、本当にマズイ。
孝樹はあたふたしつつも二人の機嫌をとる名案を必死に探した。それでもこの場の雰囲気に合う言葉は見つからない。その間にも二人の機嫌は悪くなっていく。冷や汗が首を伝うのが分かる。すると突然紗美が笑い始めた。
「まったく孝ちゃん焦りすぎだよ。私たちはさっきの“アレ”にそこまで怒ってないよ。でも正直驚いた、まさか北条さんが孝ちゃんのことを好きだったとはね」
その言葉で二人の表情はいつも通りに戻った。孝樹には何が何だかまったく分からない。すると今度はムスッとしながらもどこか笑っているようにも見える優華が口を開いた。
「ほんとこのグズって分かりやすくてからかいがいがあるわね。さてと私たち先に寝るから後ちゃんとやんなさいよ」
そう言って彼女たちは立ち上がり、『2号室』と書かれた部屋に入っていった。残された孝樹はようやく事態を理解した。つまりからかわれたのだ。
しかし孝樹の心にはその事に対する怒りよりむしろ情けなさが浮かんできた。だが彼は思い直し、頬を二、三度叩くと皆のいるリビングに向かった。それは今は目の前の事を考えよう、もっと楽しくと思ったからだ。
リビングに入ると驚いたことに全員が眠っていた。それにテレビも蛍光灯もつけっぱなしにされている。孝樹は机の上に置かれたリモコンを手に取ると電源と書かれたボタンを押した。そして皆に目を向けると既に部屋着に着替えているのに気づいた。あの短時間に皆風呂入ったんだ……
その時昴がうっすらと目を開けた。その視線は真っ直ぐ孝樹に向き、ゆっくり体を起こすと、
「ん?何や孝樹まだ風呂入っとらんのか、早よーした方がええで」と周りに寝ている友を揺すり起こし始める。
起こされた者はまだ夢心地のままフラフラと立ち上がる。昴はそんな彼らを引き連れ二階に向かった。それを見て一瞬孝樹は部屋のこと言わねーと、と思い呼び止めようとしたが彼は思い止まった。よくよく考えたら昴が知ってる事を思い出したからだ。
「まぁ、いっか」と孝樹は呟き、お風呂に行こうとして自分が着替えを持っていないことを思い出した。彼は踵をかえして自分の部屋に向かった。階段を上りきると昴たちの姿はもうなかった。早ぇー、と孝樹は廊下を見たまま部屋の扉を開けてその中に入った。
中は暗く、唯一の光と呼べるものは窓から差し込むわずかな星の光だけだった。彼は真っ直ぐその窓に進んで行き、カーテンを静かに閉めた。そこで彼は少し考え直した。これで良いのだろうかと。しかし答えはすぐに出た。
「なんとかなる、か」
彼は少し微笑んで歩き出した。ベッドの横を通り、隣のタンスから着替えを出す。その時横目でベッドを見た。今日は誰もいない。
孝樹はベッドから視線を扉の方に向け、立ち上がりながら手を伸ばす。廊下に出ると皆寝静まったようで人の気配が全く感じられない。そこは蛍光灯の明かりだけが辺りをぼんやりと照らし出していた。きっと他の時だとこういう光景には気にも留めないだろう。
だが孝樹はこういう光景が好きだった。理由なんて特にない。ただ純粋に落ち着くから、それくらいだ。
しかしいつまでもそうしているわけにもいかず、お風呂に向かった。そして音を発てないようにそっと入る。少し温かく、それがとても心地良かった。
翌朝孝樹は明るくなる前に目を覚ました。
久々の独りであった。今日はいつも隣で眠っている優華がいない。昔はこれが当たり前だったはずで、親が生きてた頃から俺は一人で寝ていた。そこで孝樹は優華の存在がいつの間にか自分の中でとても大きなものになっていたことに気づいた。孝樹の中で隣で優華が寝ているのはもう普通のことで、今はそれがない。途端に孝樹の心は霞がかかったように暗く沈んでいった。孝樹は頭を振って立ち上がり、部屋をあとにした。
廊下は昨日と変わらず人の気配はしない。まだ誰も起きていないようだ。孝樹は大きく深呼吸をして下に降りていった。そのままリビングに入り、カーテンを勢い良く開いた。空の彼方にうっすらと朝日が見え始めている。綺麗な光景だ。
孝樹は思わずみとれてしまった。すると後ろから人の気配を感じた。振り返るとそこには紗美が立っていた。じっとこっちを見ている。孝樹は咄嗟に、
「おはよう」と言った。すると紗美も笑顔で、
「おはよっ」と返してくれた。
その笑顔はさっき見た朝日のように輝いていた。彼女は孝樹に近づきながら話し続けた。
「いよいよ見られるんだね、孝ちゃんの本当の力。私すっごく楽しみなんだよ?」
「ハハハ、ホントの力っつっても大したもんじゃねーよ」
そうやって二人が笑って話していると二階から昴たちが降りてきた。しかしその中に優華と壮汰の姿はない。二人ともまだ眠っているようだ。それにしても壮汰まで眠ってるとは驚きだ。いつもなら真っ先に起きそうなのに。
その時孝樹は自分の服が引っ張られていることに気づいた。引っ張っているのは紗美だった。彼女の顔に目を向けると紗美はゆっくりと窓の外を指差した。孝樹もその動きに合わせて窓の外に視線を向ける。するとそこには……壮汰がいた。
孝樹はガッと大きな窓を開けた。二人の目がしっかりと合う。
「おはよう、壮汰」
「おっおはようございます、孝樹」
挨拶だけを軽く交えて二人は黙ってしまった。ちなみに壮汰は何故か二階から紐と布団に絡まった状態で吊るされていた。きっとこんな光景を見たら誰もが彼らと同じことを思ったはずだ。“コイツ一体なんだよ”と。
しかし彼は違った。他の皆がそう思っている中、彼だけは普段と同じように変わらぬ声音で、
「今度は何しでかした?」と言った。
「すまん。ちょっと足が滑って……」彼は軽い照れ笑いをして謝った。すると彼は続けて、
「ところで…その…降ろして下さい」と頭に血を上らせて言った。
孝樹は、はいはいちょっと待ってろと言い残して二階に向かう。残された他の皆はただ立ち尽くすしか出来なかった。一人を除いて。
紗美は孝樹が上がっていくのとほぼ同時にリビングのソファーに腰を下ろし、リモコン片手にテレビを見始めた。そしてテレビからは目を離さずに言った。
「座ったら?立ってると試合の前に疲れちゃうよ」
それを聞いて皆はお互いを見た。付き合いは永い。だからお互いの考えることは何となく分かる。皆は黙ってソファーや床に腰を下ろした。すると外から物凄い音が聞こえた。雷が落ちたときのような轟音だ。反射的に視線を外に向けると壮汰が大の字で倒れていた。その時二階から「大丈夫か?壮汰」と聞こえた。
皆は一斉に壮汰に集中した。壮汰はピクリとも動かない。
「大丈夫かって、おーい」再び二階から声がした。今度は反応があった。
壮汰はゆっくりと体に絡まった紐や布団を解いていく。紐はサラサラと解けて布団もパサリと大地に落ちていった。そして彼は顔を上げた。それをみて皆は絶句した。なぜなら額から大量の血が流れ出ていたのだ。しかし壮汰は気づいていないのか、上を見上げて高らかに、
「おう、大丈夫のようだ」と応えた。
しかし二階からは尋常ではない、すごく焦った声が響いてきた。
「おまっ、どこが大丈夫なんだよ!額からめっちゃ血が出てんじゃん!」
その声は一階の皆にも十分に聞こえた。しかし皆は固唾を呑んで見守ることしか出来なかった。壮汰もようやく状況に気づいたのか手をゆっくりと額に近づけていく。そしてその手はヌルっとする液体に触れた。壮汰はそれを視界に入るまで下ろした。
その手には日の光を綺麗に反射する赤い液体、つまり“血”がべっとりとついていた。それを見た壮汰はまるで機械のようにカクカクと首を皆の方に回していく。彼の顔が真っ直ぐ皆に向いた時、その場にいた全員の背筋がゾッとした。当然だ。目の前に顔全体を真っ赤に染め上げた人間が立っているのだから。
皆が目の前の惨事に凍りついていると当の本人である壮汰は冷静に窓際までやってきて、
「病院行ってくるから靴取ってくれないかな?」と言った。
そこに「取ってくる」と立ち上がる者がいた。紗美だ。
しばらくすると彼女は片手に靴を持って戻ってきた。その靴を壮汰は受け取り、一言、
「じゃあ」とだけ言って中庭から回って出ていった。関取模様のパジャマ姿のままで。
皆がそんなふざけた格好の壮汰を見送っていると二階から孝樹が降りてきた。彼は皆の前を通り、布団や紐を家の中に入れ始めた。
「ところでよ、なんでアイツこの上から降ってきたんや?アイツの部屋こっちとちゃうやん」不意に昴が言った。
「そう言えばそうでござる」透もそれに賛同した。すると布団を入れ終えた孝樹が、
「それなら答えは簡単だ。アイツ足を滑らした後、転がって透と北条さんの部屋に飛び込み、勢いあまって飛び出した。そんなところだ」
すごい推理力である。本人から言えば単なる経験の量なのだが皆はそう思っていないようだ。
すると二階から誰かが降りてくる気配を感じた。皆の視線がそちらに注がれる。そこにいたのは優華であった。彼女は重くて開かない瞼を手で擦りながら階段を一段ずつ降りてきた。そして皆が座っているところに同じように座った。
何故か沈黙がこの空間に訪れた。とても陽気な日曜日とは思えない。どちらかと言うと真冬の吹雪の中に皆で立っているような、そんな空気である。皆は互いに視線を交わすが話し出せる者はいない。それを見かねた孝樹はいつものように、
「皆飯にするか」と立ち上がりざまに言った。
「せやな、腹減ったわ」と何とか昴も孝樹の発言に賛同した。
他の皆も同じように立ち上がり、台所に向かった。しかし台所には椅子が四つしかない。孝樹は少し悩んでご飯を二つに分け、前半と後半に分かれて座ることにした。そして孝樹たちの順番が意外に早く回ってきて後半の孝樹・優華・紗美・透で料理を囲った。しかし四人は食べ終えるまでほとんど会話をしなかった。とても重い空気だったからだ。
その後四人は先に食べ終えていた四天王のもとに向かった。と言っても直ぐ隣なんだが。
皆が揃うと優華以外は同時に時計を見た。もうじき9時になる。
優華以外の彼ら一同には一つの思いだけが存在した。
―いよいよ試合の始まりだ―
一方優華はわけが分からずに呆然としているだけだった。