第5話 <夢とテスト・後編>
陽光がさんさんとさし始めた時、彼は目を覚ました。
刹那呆然としていたが、不意に横を見た。
そこには未だ眠っている優華がいた。
その顔を見て彼は安心した。布団から出て一階へ下る。
「おはよ、孝樹」
突然の挨拶。咄嗟に正座をして額をガンッと床にぶつけ、
「おっおはようごさいますっ」
今にも千円を差し出さん程の勢いだった。
「どっどうしたんだ?孝樹。別に挨拶しただけなのにー」
そう言っても、手は千円に延びていく。
しかし孝樹はカメレオンの捕食活動並みの速さで壮汰の手首を力強く握る。
「そうはさせねーよ。こいつぁ俺の千円だあああぁぁぁ」
「いだだだだぎゃあああ」
壮汰は悲鳴をあげ、千円を諦める。
しかし、それから一週間、壮汰の手首には手形が紫色で残っていた。
「つーか、こんな朝早くに何して……ホント何してんだよ!!」
目の前の変人―手足に五キロずつ重りをつけ、秒速一回のペースで腕立て伏せをしている壮汰―に対して言い放つ。
「何って決まってんだろう?毎朝してる筋トレさ」
この上なく爽やかな、それでいて人を彷彿とさせる笑顔である。
それから五分間くらいだろうか、ひたすら腕立てをする。
コイツ化けもんじゃねーの?と思っていると終わったのか立ち上がり、置いてあったタオルで体を拭くと、そのまま床を拭く。
そして上着を羽織ると朝ごはんや弁当を作っている孝樹に、ランニング行ってくるぜぇ、と言って飛び出していった。
孝樹は何も応えることが出来ず、ただ食事の用意に精を出した。
付け加えるならば、家事全般をこなしているのはこの孝樹である。
すると玄関が開く音がした。
孝樹は不審に思い、玄関が見える廊下に出てみるとそこには……壮汰がいた。
「お前、ランニング行ったんじゃなかったのか?」
「行ってきたさ、こっから学校までの往復。とりあえず、シャワー浴びるぞ」
そう言って壮汰はお風呂場へ行った。
孝樹は黙って台所へ、朝食の続きを作り始める、がしかし、
「あいつって一体何なんだよー、何がしたいんだよぉぉぉ」
おもわず叫んでしまった。
それが原因かどうかは分からないが紗美が起きてきた。
「何叫んでるのよー、目が覚めちゃったじゃないの」
「いや、すまん。ちょっとわけの分からないものを見てしまったもんで」
「どうせ、壮汰が両手両足に重りでもつけて腕立て伏せかなんかしてたんでしょ?んでもってその後ランニングしたんでしょ?予想くらいつくわ」
驚くほど、というか見てたんじゃないだろうかとも思える。
恐るべし直感というのだろう。
そんなことを考えていると、紗美は食事をする時の自分のポジションに座った。
そして手に一本ずつ箸を握り、孝樹の方を無言でじっと見る。
「ちょっと待てって、優華起こしてくっから」
孝樹は慌てて自分の部屋で未だ眠っている優華のもとへ向かった。
ちゃんと階段の上に落ちているゴミも見逃さず拾う。
部屋に入ると幸せそうな寝息が聞こえてくる。
孝樹はゆっくりと布団に近づく。
ちなみに孝樹の布団はベッドで、一応二人用だ。
更に加えるならば、優華の部屋もベッドでこちらには屋根のような物がついている。
これは孝樹の母親の気まぐれで買ったものだ。
もっとも今は優華の服が散乱しているだけなのだが。
優華をゆすり起こそうと孝樹はする。
すると、寝ぼけているはずなのに強烈なパンチを孝樹は腹部に受けた。
「なかなかやるじゃん、コンチキショー」
半分泣きながら孝樹は優華が被る布団を高々と掲げた。
しかし、ベッドの上には足しかなく、中腰姿勢のまま布団にくっついている。さすがに呆れてしまう。
「お前起きろよな、てかしぶとすぎだろ…」
ため息が漏れてしまう。
それが優華に聞こえてしまったようだ。
優華は布団から手を放してゆっくりベッドの上に仁王立ち。
気のせいか、背中からは禍々しいオーラのようなものが見える。
孝樹はまた血の気が失せていくのを感じた。
「今ため息したわね?私に、この私に」
このままじゃオっオっ俺の生命ぐわぁぁぁあああ、と後退りし始める。
それに対して今にも草食動物を襲おうとしている肉食動物のように目をぎらつかし、詰め寄る。そして……
「いたたたたたた、ごめん、ホントごめんって、許してぇー」
草食動物が肉食動物に捕まった。
孝樹は優華に捕まり、体格差がかなりあるはずなのに、小柄で細い優華にコブラツイストをがっちりかけられる。
孝樹はみるみる顔色が悪くなる。
逆に優華はみるみる笑顔になっていく。
そこへ天の助けがやってきた。
「ちょっと孝ちゃんおーそーいーよー、お腹へったよー」
業を煮やした紗美が二人を呼びに来たのだ。
そして彼女は目の当たりにした。
二人のプロレス状態を。
「ごめん、部屋間違えた」バタンともの凄い勢いで扉を閉める。
「間違えてない、全っ然間違ってないから助けて。ほんっとた…た…たの……む」
ついに孝樹は人間の限界に到達する寸前まで来てしまっている。
孝樹は呼吸困難に陥った。
加えてコブラツイストによって神経や関節が麻痺し始める。
その事を知ってか知らずか、紗美はノリツッコミの如く再び扉を開けて、中に飛び込み前転の要領で入ってきた。
中の二人は突然の事に驚いて硬直する。
「私の孝ちゃんに何してんだぁぁぁああ」
一瞬、孝樹の部屋がこの地球上から孤立した。
と言うか、静止した、と言った方が正しい表現かもしれない。
そして学生にとって貴重な朝の五分がこれに使われたのは恐らく言うまでもないことだろう。
その頃、壮汰は未だ頭や体(主に頭が九割ほどなのだが……)を全力で洗い続けていた。
「ほんっと手加減とかしないよな」
半分体を引きずりながら階段を一段ずつゆっくり下りていく。
そのすぐ後ろに紗美、それから少し離れた所に着替えを済ませた優華がムスッとした顔で続く。
結局、紗美により静止されたおかげでコブラツイストも解け、なんだかんだで終わっていったのだ。
「大丈夫?孝ちゃん。フラフラなんだけど…」
「な…なんとか大丈夫かな。まーコブラくらってる時はさすがにあの世から迎えが来たかと思ったけど」
「あっあんたが悪いんだからねっ!人の寝込みを襲おうとするから。私は悪くないわよっ!」
孝樹はこういうのが負けず嫌いと言うのだろうかとある意味感心してしまった。
しかしそこで、誰が襲うかよ、誰が!と反論すると、横にいた紗美が、そうよ、孝ちゃんが襲うのは私だけなんだからねなどと付け加える。
孝樹は冷静に、そもそも誰も襲わないっつーの、お前もなと更に付け加えた。
廊下を渡り、リビングを通り過ぎ、台所に入った。
出来上がった料理はほとんど冷めてしまい、アツアツだった料理だけがほんのりと湯気をあげている。
孝樹は二人を座らせて料理を少しずつ温めていく。
その時、優華があることに気づいた。
「そういえば、吉原くんってどこいったの?」
「あいつなら確かシャワー浴びるって言ってたと思うけど……」
そこに、「俺ならもう出てるぞ?」
シャワーを浴びて戻ってきた壮汰がそこにいた。
しかし、孝樹の言葉が止まったのは壮汰が現れたからではなく、むしろその姿にあった。
何故か壮汰は腰にタオルを巻いただけという姿でいるのだ。
更に腰に手をあて、仁王立ちでそこにいる。
ちなみに普段壮汰は眼鏡を掛けている。
視力が悪いというのもあるのだが、本人曰く、一番の理由は眼鏡掛けてると学力が上がる気がする、らしい。
今はその眼鏡を外してスポーツマン的な雰囲気を醸し出している。
いつもは制服に隠れて全く分からないただ痩せているような外見も、服を脱ぐと意外に筋肉質な体をしている。
優華はこれを見て顔を真っ赤にしている。
「ちょっ、お前さー、服着てこいよ」
「いやーすまんすまん。服を取ってくるのを忘れていたのだ、ハッハッハッハッハッ」
「笑ってなくて良いから早く行けって」
「了解しました、隊長」
ビシッと敬礼をして、自分の鞄がある紗美の部屋に向かおうとする。
そこで事件は起きてしまった。
壮汰のタオルが外れてしまったのだ。
ある意味で声にならない悲鳴が聞こえる。瞬間的に孝樹は動きだし、タオルをさっと拾い、壮汰に巻きつけた。
そして何事もなかったように階段の方へ彼の背中を突き飛ばす。
しかし、時既に遅しというやつだ。起きてしまったことをなかったことに出来るはずもないわけで……
その後は全員が重く澱んだ空気の中、黙々と各々のすべきことをこなしていった。
端から見れば地獄絵図とも言えるかもしれない。
そして時間が来ると、孝樹と壮汰、優華と紗美でペアを組み、学校へと歩み始めた。
「オッス、雨っちー」
「よっ!孝……どうした?何か顔色悪くないか?」
小田野と一村が教室の入り口にある席に座ったまま孝樹の顔を見て聞く。
「だっ大丈夫だ…問題ねぇー」と孝樹は応える。
その間に優華、壮汰、紗美は自分たちの席へ早足で去っていく。
それを見ていた一村が、「やっぱ何かあった?」と聞く。
「ちょっと…な」
孝樹はそれ以上は語らず、自席へ向かった。
小田野と一村には何が何だか全く分からなかった。
唯一分かったのは、今あの四人が険悪なムードであるという事だけだろう。
しかしその険悪も一日で解消され、日常が再び戻ってきた。
それから前期中間考査当日まで、特に騒動は起こらず(壮汰の暴走は相変わらず続いているのだが…)平凡に勉強し、学力をつけていった。
そして当日の朝。
外は生憎の雨である。それもよりによって豪雨。しばらくは止みそうにない空模様だ。そんな空を一人窓から眺め、ため息をつく。
「最っ悪」思わず孝樹は愚痴ってしまう。
「まーまー、仕方がないだろ?自然現象なんだから」
「うわー、吉原くんが真面目なこと言ってるよー」
「…………」
リビングに座り、そんな孝樹を見ている三人が言った。一人は何も言ってないのだからこの表現は変かもしれない。
孝樹は空を眺めるのを止め、三人の輪に加わる。
そして中心の小さな机を挟んで四人は輪を組む。
「それじゃ、前期中間考査赤点ゼロを目指して。行くぞー」
「おー!!」
四人は机の上で手を重ね、力を込めてお互いの健闘を祈って叫ぶ。そうしてお互いの顔を見た後、自分たちの部屋に荷物を取りに行く。
全員が玄関に揃う。一人ずつ靴を履き、外に出て全員が出ると孝樹が家に鍵をかける。
雨は相変わらず澱みきった曇天から降っているが、今の孝樹たちにはそんなもの何でもない。
孝樹たちの頭の中にあるのは唯一考査だけであった。
教室に入ると、中は勉強派と会話派に分かれていた。
「オッス、孝」
「おはー、雨っちー」
一村と小田野が近づいてくる。
孝樹は手を挙げて応えた。
しかし、他の三人は少し微笑んで自分たちの席に行ってしまった。
「俺たち、何かした?」と一村が聞いた。
「いや、してねーよ。一村たちがどうのってわけじゃなくて、俺たち赤点ゼロ目指してるから……」
ちょっと困ったような顔をした。
一村たちは、そうか、そういう事か、と理解してくれたようだ。
そして孝樹たちが会話をしている間に、優華たち三人は鞄から勉強道具を取り出してひたすら復習していた。
ただ、優華と紗美は普通に勉強しているのだが、壮汰は……何というか、うん、ひたすら筋トレをしている。
残念なことに、孝樹他二名はその壮汰の行動を見てしまった。
「相変わらず、だな」
「あっああ、そうなんだよ」さすがの孝樹も呆れてしまう。
壮汰のせいでやる気とかそういうものが全てどこかへ失せてしまった。
そんな三人の事などお構い無しに壮汰は勉強しながらの筋トレに精を出している。本当にいろんな意味ですごい男である。
そして雰囲気を乱されてしまった孝樹たちは散っていく。
孝樹は席に着くと落ちてしまったやる気を何とか立て直し、復習し始めた。
とりあえず今日行われる現代文と理科から手をつける。
考査と言っても授業で習った内容が基本的に出される。
つまり、ノートを見返したりすれば、だいたいは解けるはずである。
そして時間が来るまで、四人はそれぞれ一心不乱に勉強をした……
これより報告致します。
一日目が終了して、今皆が集まりました。
「ふんっ、これくらいなら楽勝楽勝」
余裕たっぷりでふんぞり返る優華が言います。
俺、壮汰、紗美はホッと一安心しました。
二日目
今日はどうやら後ろで何か起きたらしいです。
話を聞くと、壮汰の仕業みたいです。
考査中は番号順なのですが、一番後ろの席に壮汰は座っています。
だから出来たのでしょう。
監督官の教師が居眠りしている隙に机の上で倒立したり、腕立て伏せをしたりしたらしい。
ちなみにバレませんでした。
更に加えて、壮汰は一応真面目な奴のはず……
考査が終わり、再び集合しました。
「だ…だいじょ……うぶ、まだまだ余裕」
冷や汗かきながら言う台詞じゃありません。
俺たちは若干心配になりました。
三日目
今日は教師がやってしまいました。
考査の時に配られた問題を見たところ、そこに見覚えのある絵がありました。
その絵は二週間程前でしょうか、優華と紗美が己の絵画力を競い合って描き上げたものでした。
しかも、どちらの絵も理解できるようなものではなく、クラスの大半が不正解になった事は言うまでもないでしょう。
その日が終わり、再び集合しました。
「まだまだよ、まだ楽勝なんだからね!」
昨日の状態につけ加えて、今日は息も上がっていました。
俺たちは一層心配になりました。
最終日
朝の教室に邪心だとか闇だとか呼ばれるものを纏わせた女子がいました。優華です。
どうやら疲労が限界寸前まで来ているようです。
さっきからずっとイライラしています。
相変わらず息は荒く、まるで獣のようです。
それでも本気で勉強しています。
本日は集まらず、皆バラバラに帰ってきました。
「さすがに疲れたわ」
とうとう目の下にクマができました。
俺たちは優華の健康が何だか心配になってきました。
しかしついに考査が終了しました。
これにて雨河孝樹の報告を終了します。
その夜、無事(?)に考査を潜り抜けたと言う事で焼き肉パーチーが雨河家で開かれることになった。
ざっと見渡して二十人前はあるだろうか。
すべて優華の父・春助が持ってきてくれたものだ。
ただ四人で二十人前はさすがに多すぎる。
なので現在雨河家には孝樹たち四人以外に、一村や小田野、南に佐能、琴音に羽奈までやって来ている。
いつもの机では小さいので今日だけ特別にリビングのソファーを廊下に出し、広くなったそこへ優華邸から借りてきた大きな机を運び入れた。
時刻はまだ七時、これから盛り上がっていくところだ。
部屋の中は焼かれた美味しそうな肉や野菜の匂いで一杯になっている。
同様に話し声も絶えることなく部屋に響き渡る。
「みんな一人一杯ずつコップを持ってくれ、乾杯しようぜ?」
そう言って孝樹は壮汰を伴って一人十杯ずつサイダーの入ったコップをお盆に乗せてリビングに入ってきた。
その時、「あのー、申し訳ないのですが、お茶を頂けないでしょうか?私炭酸系のものが頂けませんので」とすごく困ったような、本当に申し訳なさそうな顔をして琴音が謝った。
「いっいえ、全然構わないッスよ。今取ってきますから」
机の上にまだ数杯残っているお盆を置いて再び台所に行こうとした。
「あっあの、わっ私もお茶にしてもらいたいです」
不意に琴音の隣にいた羽奈が言った。
そして焦っているのか、はわわわと言っている。
「了解。他にお茶がいい人いる?」
すると南禅も手を挙げた。
孝樹はそれを確認して台所に行った。
それを見送って琴音はコソッと「羽奈ちゃん可愛いですわー、憧れの人を見て恥ずかしがられて」と言った。
「はわわわわ、そんなことないもん」
顔を真っ赤にして手をバタバタさせている。
いろいろと可愛い人である。
「お待たせしました」
孝樹がお茶を持ってやって来た。タイミング悪く、羽奈は台所に背を向けて立っていたため、気配に気づかなかった。
「ほええぇぇー」
ビクッと飛び上がり、その場に腰から崩れてしまう。
近場にいた壮汰と優華が振り向いた。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですわ。後は私にお任せくださいな」
そう言って琴音は羽奈に肩を貸して隅の方に連れていく。
それを見ていると隣に壮汰と優華がやってきた。
そして二人もそれを見ている。すると視線はかえず、二人は話し出す。
「やってしまったな、孝樹」
「やっちゃったわね、孝樹」二人が同時に言った。
「なっ何をだよ、俺は何もしてねーぞ」とそれに返す。
「ああいうタイプに後ろから声かけるのはまずかったよな」
「まずかったわよね、それに必要以上に驚く意味があるみたいだしね…」
孝樹たち二人には彼女の言っている事の意味がイマイチ掴めない。
恋愛面に疎い二人である。
その後、どんどんパーチーは盛り上がっといく。
二十人前あった料理も一時間程でなくなった。
なのでそれからは皆で絨毯の上に座り、テレビを見ながら雑談をする。
孝樹も例外ではない。
一応雑談の輪には入っている。
しかし彼はそのほとんどをまともに聞いていなかった。
彼の視線はある一点-体調の良くなってきた羽奈の隣-に向けられていた。
けれども自分からそこに話しかけたりはしない。
なぜなら憧れの存在だから。
その孝樹の行動に二人も気づいていた。
優華と紗美だ。
二人は近づき合い、小声で話す。
「あいつすごく見てるわ」
「見てるね、どうする?」
「こうすんのよ」
優華はどこに隠し持っていたのだろうか、懐から輪ゴムの束を取り出した。さらにその中から三つの輪ゴムを外すと再び束を懐に戻した。
そして輪ゴムで狙いを定める。
照準を絞り、輪ゴムをウンッと伸ばしていく。
伸ばすと指が震え始める。
すると優華の目がカッと見開く。
次の瞬間、撃ち放たれた輪ゴムは真っ直ぐ孝樹の首筋へと飛んでいく。
三つの輪ゴムは一秒も経たずに連続で放たれたため、間髪入れずに当たり続ける。
即座に孝樹は唸った。
「いってー、何だ?輪ゴム?」
ハッとなって孝樹はゆっくりとだが確実に優華を見る。
そして彼の顔は青ざめていった。なぜなら優華の口が動いているのだ。
その口が言ったもの、それはア・ト・デ・コ・ロ・ス、であった。
孝樹は体が震え出すのを感じた。
そこでようやく隣の紗美にも気がついた。
彼女は優華のように口には出さず、表情で怒っている。
孝樹は思った-あぁ、俺、死亡フラグたってんじゃん-
それから孝樹は恐怖で二人から目が離せなくなってしまった。
気づくともう夜中の十一時になっていた。
「さすがに帰った方が良いんじゃねーの」と孝樹はその場にいる皆に提案する。
「そうね、そろそろ帰りましょうか。海花ちゃん」南が佐能に言った。
「え?あーそうね、そうしよっか」ちょっとあたふたとしつつ海花が応える。
二人は立ち上がり、荷物をまとめ始める。それを見ていた琴音と羽奈も立ち上がり、荷物をまとめ始める。
「二人も帰るのか?」ソファーに座る壮汰が振り返えって言う。
「ええ、そうさせていただきますわ。まだやらなくてはいけない事も御座いますし」
「わっ私も家の事しなくちゃいけないから失礼します」
二人はそう言って玄関に向かう。南と佐能もそれについて行く。
しかし竜一と光介はまだ座ったままテレビを見ている。
どうやらこの二人はまだまだ帰る気がないらしい。孝樹は二人の家がここから近いのも考慮して、まっいいか、とそれを流す。
その時孝樹はあることを思いついた。
「そうだ、時間も遅いしあの四人送って行かなくて良いのかな?」
「確かにそうだな、んじゃ途中まで送ってくか」とソファーから立ち上がり壮汰が答えた。
「お前らまだ帰らないんだったら優華たち頼んでもいいか?」
「おう良いぜ?」
「まっかせろ~い」と二人は手を挙げた。
孝樹はすごく不安になった。自信満々で手を挙げている分、不安が増していく。
その時壮汰が肩に手を置いた。壮汰を見ると彼の顔には『大丈夫!』と書いてあった。主に額の中心に赤ペンで。
孝樹はたった今まで心の中にあった不安が消えていくのが分かった。不安が消えると壮汰の行動を笑わずにはいられなくなった。やっぱり壮汰は良いヤツだ。そうして、んじゃちょっと送ってくる、と優華たち四人に言った。
皆笑顔で手を振った。
玄関から出るとまだ入口に彼女たちはいた。どうやら話し込んでいたらしい。四人の顔を街路灯が優しく照らし出す。
「あら?雨河くんに吉原くん、どうかしたのかしら?」
目線的に一番初めに気づくことの出来た南が言う。その声に今まで色んな話をしていた他の三人も孝樹たちの方に向く。
孝樹は軽く手を挙げて、「送ってこうかと思ってさ」と言う。
「ちなみに方向違うから俺も来たよ」と壮汰が孝樹の後ろから言った。
「そう、んじゃまた学校でねっ」
「学校で」
佐能と南が歩き始める。
「んじゃ俺あの二人の方行くからそっちは任せるぜィー」そう言って壮汰はスキップで追いかける。
「んじゃ…俺たちも行くか」孝樹は壮汰の方から視線を戻して二人に言う。
「ええ、そうしましょう」
「……」
琴音と羽奈が言う。ちなみに羽奈はずっと俯いている。
そして三人は横一列になって街路灯だけの暗い道を歩き出す。
二分ほどたっただろうか、大通りに出た。深夜だと言うのに昼間のように車が往来している。
「この辺りまでで十分ですわ」琴音が孝樹をちらっと見上げて言った。
孝樹は辺りを見渡した。確かにこの大通りは明るい方だ。
車のライトや街路灯の明かりがある。
しかし、一つ裏の路地に入ればその明かりも川辺を飛ぶ蛍のように点々としかありはしない。
「いや、ちゃんと送っていくよ」優しく微笑んで孝樹は言った。
「大丈夫ですの?優華さんたちはお家でしょう?」
「大丈夫、一応竜一と光介に頼んできたし」
「そうですか、では行きましょうか」
再び歩き出した。しかし、十メートル程歩いた時に一人足りないことに孝樹は気づいた。
「あれ?倉塚は?」
「あら?」
倉塚羽奈がいなくなっていた。周りを孝樹は見回した。
こんな暗い中を探すのはほとんど無理なんじゃないだろうか、と孝樹が思っていると、琴音が一点を指して「あちらに…」と言う。
その一点をよく見てみると、人が立っているのが見える。
残念な事に光の届かない場所なので誰かまでは分からない。
それにも関わらず、琴音は躊躇うしぐさなど全く見せず、「羽奈ちゃーん」と言った、と言うか叫んだ。
「ほえっ!?」と明らかに驚いた声が聞こえてきた。
そしてその人は孝樹たちの方に向かって走ってくる。
三メートル程まで来たところでようやくはっきりと羽奈だと分かった。
ただ、分かった瞬間孝樹の視界から彼女は消えた。孝樹は起きた事を理解してゆっくり下を向いた。
するとそこには手を伸ばして倒れている羽奈がいた。俗に言うドジっ娘なのだろう。
「大丈夫か?豪快に転んだけど」
「エヘヘヘへ、大丈夫だよ」
そう言って羽奈は立ち上がろうとする。
しかし足首に力を入れた瞬間、彼女は唸って歩道に片膝を着く。
どうした、と孝樹が近づいていくと、何でもない何でもない、と彼女は手を振って言った。
けれど孝樹の目にはハッキリと羽奈が左足首をおさえているのが見えた。
「今転んだ時に痛めたんじゃねーの?」
「だっだいじょうぶだよ」
「大丈夫って立てねーじゃん」
あたふたしている羽奈を見ていると、何だか助けてやらないとと言う感情が孝樹の心に浮かんだ。
孝樹は羽奈の前にしゃがむ。
「乗れ。このままじゃ遅くなる一方だし、親が心配するかもしれねーぞ?」
「えっ?いいよいいよ、私きっと重いから良い」
「気にすんな、俺も気にしない。それより今は帰ることが最優先だ」
彼女は動揺していたが、観念して背中に乗った。乗せてみると驚くことにすごく軽かった。
「倉塚さー、めちゃくちゃ軽いな」
「ほえっ!?」かなりの不意打ちだったようだ。羽奈の体は次第に震えていく。
「ごっごめん、何か俺、変なこと言っちまったみたいで」孝樹が慌てて訂正する。
「そっそんなことないですよ」
そうして二人がお互いに謝っているのを外側から眺めている琴音は頬に軽く手を添えて、悩ましげに、デジカメを持ってくるべきでしたわ~、と考えていた。
十分程歩くと羽奈の家に着いた。
家の中はさすがに暗くなっていた。当然だろう、既に深夜なのだから。孝樹は羽奈を玄関に連れていく。
そして、鍵を開けさせて中に運び込む。
「わざわざありがとうございます」と何度も何度も頭を下げる。
孝樹は軽く手を挙げて、「いやいや、でも大丈夫なのか?色々と」と言って羽奈の足首を見る。
「大丈夫です、ちゃんと手当てしますし、ありがとうございました」とまた頭を下げる。
「それなら良いけど、んじゃ行くわ。また学校でな」そう言って向きを変え、歩き出す。
「はっはい、おやすみなさい」またまた頭を下げた。
「おう、お休み」孝樹は振り向かずに手を挙げた。
孝樹の前では琴音が、おやすみなさい、と上品に頭を下げた。
孝樹が入り口の門を出るのと同時に後ろでも扉が閉まった。
そのことによって今ハッキリと孝樹と琴音を照し出すのは等間隔で路上から伸ばされた街路灯だけとなった。
さらに五月も直に終わり、六月に入るというのに何となく寒い。
例えるなら、幽霊とか妖怪てかが一番出やすそうな不気味な雰囲気だ。
その時ふと横を見た。何となく震えているような琴音が孝樹の目に入った。
孝樹は無いよりはましかな、と思い、自分の着ていた上着を琴音に羽織らせる。
「ちょっと寒そうだから、こんなんで良ければ羽織ってると良いよ」と何となく驚いたような表情をしている琴音に言った。
もしかして嫌だったのだろうか、迷惑だったろうか、と思っている事が顔に出てしまったようだ。
琴音はとても上品で優しい微笑みをして、「ありがとうございます。とても温かいですわ」と言ってくれた。
孝樹の顔は安堵の表情を隠しきれずに綻んでしまう。
琴音はそれを見て、どうかしました?、と聞いてくる。
慌てて、何でもないです、と応える。
そうして二人は夜道をたわいもない会話をして歩いた。
あまりにも話し込み過ぎていつの間にか琴音の家の前に着いていた。
孝樹は自分の目を疑った。なぜなら琴音の家が優華の家ほど大きくはないにしろ、一般的な家と比べれば間違いなく大きい。
恐らく孝樹の家とかわらないだろう。
「ほんとにここが家なんですか?」思わず聞いてしまった。
「はい、そうですわ。こちらが私、和泉院家の本宅ですわ」屈託のない笑顔で返された。
「へ、へ~」孝樹はもう一度和泉院家の本宅とやらを見上げる。
やはり俗にいうお金持ちなんだ。俺とは住む世界が違うな。
そんなことを思っていると、琴音がゆっくりと孝樹の視界に入ってくる。
「大丈夫ですか?」と琴音が心配になり、聞いた。
「え?あっ大丈夫です、ありがとうございます」慌てて答え、琴音に焦点を合わせる。その時孝樹はドキッとした。
目と鼻の先程の距離に琴音がいたのである。
琴音はすごく肌が白く、容姿で例えるなら『かぐや姫』が一番近いだろう。
当然校内においても人気は高く、噂では週に一回は告白され、その全てを断っているらしい。
ちなみに孝樹もその一人であるが、告白まではしていない。そんな勇気は持っていないし、このままの関係でいたいから。
一瞬見とれてしまうが、すぐに驚いて後ずさる。
その時不意に足がもつれてしまった。
孝樹の体が徐々に傾いていく。孝樹は思わず手を伸ばしてしまった。
手を出されたのだから琴音はそれを掴んでしまう。
掴んだところまでは良かったのだが、孝樹と琴音では体格差がありすぎた。そのせいで琴音は耐えきれずに孝樹の上に倒れてしまう。
孝樹は琴音が掴んでくれたお陰で頭や腰を強く打ち付けずに済んだ。
「イッテー、あっ和泉院さんごめん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですわ。あっすみません、重いですよね。すぐどきますわ」
「大丈夫っすよ、全然重くないですから」
「……」
琴音はさっと立ち上がり、お恥ずかしい、お休みなさい、と家の扉を開けて去っていった。
孝樹はゆっくり立ち上がり、特に何も言わず、無言で家に帰った。ただその途中で一つだけ思った事があった。
それは、これからどんな顔をして会ったら良いんだろう、という一種の恐怖だった。
家に着くと、もう壮汰は帰ってきていた。そして光介と竜一もまだテレビを見ていた。
「おっ帰ってきたか、遅かったな」
「おっかえり~雨っちー」
「お疲れ、孝」
リビングの扉を開けた俺を見て三人が言った。そこで俺は優華と紗美がいないことに気がついた。
「なぁ、優華たちはどこいった?」
「あの二人なら確か風呂に行くと廊下で会った時に言ってたぞ?そう言えば、一村と小田野に伝言を頼まれていた。えーと、『アンタらもし覗いたらぶっ殺す』だったかな」
「俺たちは覗きなんてしないよ~」
「そうだとも、俺達がするのは“男のロマン”さ」
ああ、こいつらダメな連中だわ、と孝樹はそんな事を言う友人達をすごく痛い目で眺めた。
壮汰を見ると…こいつはいつも通りだった。
「よっし竜一行っくぞー」
「よっしゃ~」ダメな二人はとある特殊部隊の兵士のようにコソコソと隠れながらお風呂場へと向かっていく。
残った孝樹と壮汰はため息一つ、ソファーに深々と腰を下ろし、テレビを見始めた。
すると二分も経たない内に二人の悲鳴が聞こえ、孝樹たちは廊下に慌てて飛び出した。
そこには瀕死状態で突っ伏している二人の姿があった。
「なー孝樹、これぞまさしく有言実行と言うんだろうな」
「ああ、まー分かってた事なんだが、いざこうやって結果を見ると恐怖心が湧いて、行かなくて良かったと思うよ」
二人は苦笑。さらに額からは冷や汗が流れていく。
恐怖からか、二人は覗き魔共から目が離せない。すると、
「自業自得よっ!私はちゃんと忠告したも…の…」優華の視線は真っ直ぐ壮汰に向けられる。
話しかけられ二人は優華を見た。
目が合って二人は絶句した。
優華を見に来たのが孝樹だけだと思ったのか、バスタオル姿で脱衣場から現れた。
“死亡フラグ”というやつじゃ…、と孝樹の脳裏に過った。しかし、影響力は壮汰の方が強かったようだ。
優華は黙ってしまい、さっと脱衣場に飛び込んだ。その後すぐに脱衣場から物が落ちる音がしたが、今行けばきっと殺される。
精神的に傷ついたろう獣は傷つけられた分を上乗せして襲ってくる。
それだけは避けたい、いや、避けなければならない。
「戻っていよう、今関わるとろくなことにならなさそうだ」
「そうだな、ところで孝樹、この変態共はどうするのだ?」
「一応救助してやっか」
二人は憐れな連中を引きずりながらリビングに運ぶ。どうやら完全にノックアウト状態のようだ。
孝樹は光介を、壮汰は竜一をそれぞれ手当てする。
それが終わった時、優華と紗美がお風呂から戻ってきた。
「私たちは悪くないんだからねっ」二人が同時に言った。
「分かってるってそんな事。ちゃんとこいつらの行動を見てたから」孝樹が言う。
そこで時計を見ていた紗美が、もう日付変わるよ、と言った。それにつられて三人も時計を見た。
たしかに日付が今にも変わろうとしている。
現実の時間に戻り、四人は欠伸をする。
皆同時の欠伸だったので思わず笑いが起こった。
その笑いで気絶していた二人も目を覚ました。
そしてそのまま二人は女子二人に対し、土下座をして、
「すんませんでしたー」と謝った。突然の出来事に優華たちはビクッと驚いた。
「なっなんなのよっ!びっくりするじゃないの、てかしちゃったわよっ」優華は顔を真っ赤にして怒る。
「すんませんでしたー」
再び土下座である。こいつら学習はしないのか?本当のばかなのか?と孝樹は頭を抱えてしまう。そして
「もう良いから帰ってくれよ、夜もおせーしよー」半分投げやりだ。
「そうだな、もう遅いしそろそろ帰った方が良いだろうな」冷静な壮汰が言った。
「確かに、んじゃ失礼致します」
「失礼しや~す」
二人は立ち上がり、頭を下げ、荷物を持って出ていった。
これで残ったのは特別合宿を行ったメンバーだけとなった。
「んじゃ俺たちも風呂入っか」
「そうだな、入るといたすかのうー」
二人は歩き出し始めた。そこに優華が、私たちは先に寝てるから、と後ろから言った。
孝樹は手を挙げてそのままお風呂に向かう。
しばらくしてお風呂から上がった二人はリビングでサイダーを飲んでいた。
同時に飲んで、プハーと幸福的に息を吐く。
「やっと終わったって感じがするよな」
「しますなー」
「何か色々とありがとな、助かった」
「なんのなんの、気にするなよ」
「そういや考査も終わったわけだし、やっぱ帰んのか?」
「その予定でいるぞ?まーでもここはここで楽しいからなー」
「んじゃ壮汰もここで暮らすか?」
「良いのか?ここで暮らしても」
「良いだろ、別に。まーあいつらにも聞いた方が良いと思うから決定は今度だけどな」
「そーだねー、んじゃ明日聞くってことで良いのではなかろうか?」
「構わんよ、んじゃそう言うことでお休み」
「オッスっ、お休みであります」
孝樹が立ち上がり、寝に行こうとすると壮汰が孝樹の方を向いてどこかで見覚えのある軍曹のような敬礼をする。
孝樹も軽く敬礼して再び部屋に向かう。
部屋に入るとあの寝息が聞こえる。いつも通りの幸せそうな音だ。
孝樹は周りをよく調べる。どうやら今日は忍び込んでいないようだ。
孝樹は伸びをして布団の中に入る。その時、優華を起こしてしまった。
「もー、起こさないでよ、良い夢見てたんだから」鋭い目付きで言う。
「ごっごめん、起こすつもりはなかったんだ」慌てて謝る。
「分かってるわよ、おやすみっ」そう言ってまた深い眠りへと彼女は落ちていった。
再び隣からは心地の良い寝息が聞こえ始めた。
それを聞きながら天井を眺めていると、次第に孝樹も睡魔に襲われ始めた。
雪が降ってる。前にも見たことがある風景だ。と言うか明らかにあの夢の続きだろ、これ。
そんな事を考えながら雪の上をどこへ向かうわけではなくただ歩いていく。相変わらず時間は深夜のようだ。
吹雪いてはいないから歩く分には助かる。しかし行方が分からない以上どうしたら良いのかも分からない。
これが途方に暮れるというやつなのか。膝から体が雪の上に崩れていく。
その時、視界の端に小さな光が見えた気がした。
孝樹は目をよく凝らしてその光の方を見た。
するとそれが懐中電灯だと分かった。
ゆっくりと確実にその光に向かって歩んでいく。しかし光はどんどん弱くなっていく。
孝樹は焦った。
孝樹にもよく分からないが、あの小さな光を掴まなければならない。そして絶対に離してはいけない気がする。
その思いで心が一杯だ。
歩き続けて後少しの所まで来た。
光はさらに弱くなっていた。待ってくれ、もう少しで、もう少しで届くんだ。
そして光に触れそうになった瞬間、彼は目を覚ました。
あれは一体何だったんだろうと考え、不意に隣で眠っている優華が目に入った。
孝樹にはあの夢に何か大切なものを感じ取った。