第4話 <夢とテスト・前編>
そこは一面銀世界だった。
今までに見たことのない様な美しさである。
そしてそんなどこまでも続く雪の上に俺は立っていた。
月が出ていることから考えるときっと夜なのだ。周りも暗いし。
その月が真上にあることから想像するに0時位だろうか。
「どうしよう」呟きながらもどこへともなく歩き出す。
しばらくして雪が降り始めた。
そしてそれはすぐに吹雪へと変わっていった。
もはや目も開けていられないほどになってきている。
どうしたらと彼は凍える体をさすりながらも歩き続ける。
どこまで行っても終わりが見えない。
彼はもうだめかと思った。
しかしその時、彼は目を覚ました。
そして今までの銀世界が全て夢だと気づいた。
「今のは夢か。夢で良かった」額に手を置き、心を落ち着かせた。
そして現実の出来事に彼は気がついた。
目を開けると自分の上に紗美が乗っかっているのが目に入った。
「お前さー、朝から何で人の上に乗ってんの?」と問いかける。
「別に…ただ目覚めが良いようにと思って」エヘッと舌を出す。
しかし、そんな表情をした紗美でも孝樹の感情を動かせない。
「とにかく俺の上からおりてくれよ」
「えーやだよぅー」と二人が騒いでいるとベッドの方でゴソゴソと動く音がしたかと思うと
「ああーもうーうーるーさーいー」と誰かが怒鳴った。
当然、眠っていた優華である。
二人はビクッと飛び上がった。
慌てて孝樹は謝った。しかし紗美はそそくさと部屋を出ていってしまった。
「もう朝から何なのよあの女は」イライラしながら言った。
「ごめんごめん。とりあえず起きよう?」
「起きようってもう起きてるわ」
「すんませんでしたっ」孝樹は部屋から飛び出した。
皆が仕度を終えて下の食卓に集まった。
既にもう朝ごはんの用意はされており、孝樹は三人で飲むための紅茶を煎れていた。
紗美はリビングのソファーに腰掛け、手鏡で念入りにチェックをしていた。
その時、玄関のベルが鳴った。
「こんな朝早くから誰だ?」と孝樹は玄関へ歩いていく。
しかし、紗美も優華も気にする風もなく朝ごはんを食べ始めた。
孝樹はため息をついて玄関の鍵を開けて扉を開いた。
するとそこには壮汰が立っていた。
「おはよう、孝樹」と彼は孝樹に手を挙げる。
「おはよう、吉原」と孝樹も彼に対して手を挙げる。
「おいおい孝樹、何で『おはよう、吉原』って言ったんだ?そこは『おはよう、壮汰』だろ?」
「そりゃすまん。…てかお前いつから俺の事孝樹って呼び始めた?昔から雨河だったじゃん」
「だってよ、友達になってかなり経つんだぜ?そろそろ名前で呼んでも良い仲だろ?もしかしてまだ早かった?」
「そんなことはねーよ。まーそうゆうことなら俺も下の名前で呼ぶよ」
「サンキュー」
「ところでさ、壮汰こんな時間にどうしたんだよ?いつもなら朝練の時間じゃねーの?」
「あー今日休みなんだよ。部活」
「そういうこと。んじゃ今時間あるんだ。てかもっとゆっくりすりゃ良いじゃん、家でよ」
「いやいや。家にいてもなかなか休まらんさ。それより孝樹ん家あがって良いか?」
「俺は良いけど、他の連中が何て言うかさ」
「気にしない気にしない。お邪魔しまーす」
そういうと、孝樹が止めるのも構わず部屋に入っていった。
孝樹は玄関を閉めて慌てて壮汰の後を追いかけた。
すると中から三人の悲鳴が聞こえてきた。
分かりきったことだが、どうやら三人が顔を合わせてしまったようだ。
孝樹はどう説明しようか考えながらリビングに入った。
そこには鞄を落として立っている壮汰がいた。
孝樹は壮汰に近づくと優しく、「まー座ってくれ」と椅子をひいた。
壮汰はその椅子に座ると、「どう言うことだい?孝樹」と言った。
孝樹はこの一ヶ月間に起きたことなどを細かく話した。
壮汰は理解したのか、頷いて、「そりゃ大変だな」と笑った。
孝樹はシンクの台所に手をかけて、笑い事じゃねーよこっちは、と嘆いた。
そんな彼を見てから壮汰を見る紗美の目はどこか冷めている気がする。
優華は壮汰から目を離してはいるものの、虚ろな視線で机の一点を見続けている。
それからしばらくは皆で少し騒いでいたが、壮汰が時計を見て、「そろそろ学校行こう」と言ったことによって雑談は打ち切られ、皆揃って家を出た。
四人が教室に入ると孝樹のもとに小田野と一村がやって来た。
「おっはよ~雨っちー」
「おはよう、孝」と二人が挨拶をする。孝樹はそれに手を挙げ、「オッス」と短く応えた。
「そういやさ~、雨っち勉強してる~?」
「勉強?いや全くしてねーな。てかよ、何の勉強?宿題かなんか?」
「いや違うぞ孝。テストだテスト」
「テスト?テストって何の?」
「お前大丈夫かよ。今テストって言ったら前期中間考査しかないっしょ」
「前期中間考査……」
孝樹は言い終えてハッとなった。そう、もうすぐ高二になって最初の定期考査があるのだ。
「忘れてたなー。まっ何とかなる」
「孝ってある意味すごいよな」
「ある意味だけどね~」
そう言って二人は孝樹から離れていった。
孝樹は、あっある意味だと…心にグサリとくる。
そして、それと入れ替わりに壮汰がやって来た。
「やあやあ、一体どうしたんだい?」
「どうしたって中間考査の話を聞いて驚いてんだよ」
「中間考査?そういえばそろそろだな。なあーに問題ないさ」
そして壮汰は孝樹の肩に手を置き、何度か頷いた。
彼は頷いた後にいきなり孝樹の背中を叩き、席へと走っていった。
「やっぱり良いわよね」と突然隣で声がした。
孝樹はビクッと飛び上がり、ゆっくりと左下を見た。
そこには腕を組み、仁王立ちしている優華がいた。
そして孝樹は何となく気づいてしまった。
優華が壮汰の事をやっぱり好きなのだということに。
その時、彼の心には少し悲しい感情がわき起こっていた。
ただ彼にはこの感情が一体何なのか、まだいまいち分からなかった。
一方、優華は孝樹が見つめていることに気がついておらず、目を輝かせて壮汰の事をジッと見つめ続ける。
「そろそろ時間だし、座るぞ」と孝樹は気を取り直して優華に言った。
「そうね、そうしましょう」と優華は言う。
二人はそれぞれの席へと向かい歩き出した。
それでも孝樹の心の中にはモヤモヤしたものが残ってしまった。
その後はまともに勉強をする気にはなれなかった。
聞いていないとかそういうのではない。
ちゃんと聞いてはいるし、ノートもしっかり写している。
教科書に線だってちゃんと引いたりしている。
つまり授業はまじめに受けているのだ。
ただ、どこかやる気というものであろうか、そういうものが完全に無くなってしまったのである。
三限目が終わった時、孝樹は机の中から四限目の用意を取り出そうとして落ちた一枚のプリントを見た。
それは朝、教室に入ってきた阿波ちゃんが配布した二週間後に控えた中間考査の科目表だった。
孝樹はとたんに現実に戻されてしまった。―そういやこれの事忘れてた。
やばいな、どうしよう。と頭を抱えて悩んでいると前から壮汰が歩いて……というかスキップをしながら、「どう…した…孝…樹…」と声をかけてきた。
相変わらず変わってるよな。と考えていたところにふっと彼は閃いた。
「おい壮汰、お前って頭良いよな?」
「えっ?頭良いか悪いかと聞かれたら良い方なんじゃなかろうか、ね?」
「じゃーよ、考査が終わるまで勉強教えてくれよ」
「勉強?お安い御用だ御用だ」
「サンキュー」
こうして考査が終わるまで約二週間、特別強化合宿が決まった。
ただこの時、優華と紗美はこの事実を知らなかった。
翌日の午後、授業が終わり、クラスの皆が思い思いに教室を出ていく中、孝樹もまた荷物を鞄に詰めて帰路につこうとしていた。
外は綺麗な夕焼け空となり、少しこの季節には寒い風が吹いている。
グラウンドではサッカー部が練習に精を出す。
ちなみにこの学校のサッカー部はこの一年で飛躍的に強くなった。
それは現部長の賜物であった。更に加えるなら、その部長というのは壮汰だったりする。
壮汰は一年生の間に、荒んでいたサッカー部を立て直してその上、県大会一位と言う好成績をおさめた。
そんなサッカー部を窓から眺める孝樹は不意に時計を見た。あと一分で五時になる。
鞄を持ち直し、教室に残っている一村たちに挨拶をして孝樹は出ていく。
彼は真っ直ぐ昇降口へと歩き、上靴を靴に履き替えて外に出た。
外に出た孝樹は少しの間、綺麗に染まる空を仰いだ。
空にはゆっくりと風に身を委ね、次々にその姿を変えてゆく雲がいくつか見える。
真っ白に見えるが、時折夕陽に照らされオレンジ色に美しく染まる。
そんな空を仰ぎ、少し心が晴れていく気が孝樹はした。
「すまん、すまん。待たせたな」
そう言って壮汰が走ってきた。
大急ぎで着替えたのだろう、制服のボタンは全開になり、眼鏡は半分ずり落ちてしまい、鞄からは体操服やら部活のジャージやらが飛び出していた。
「何か悪かったな。急がしちまったみたいで」と孝樹は頭を下げる。
「大丈夫だぞ、後は片付けだけだから後輩がやってくれる。ちゃんと事情も話して納得してもらってるし。問題なし」
彼は親指をビシッと立て、「さあ、行かん。アッハッハッハッハッ」と孝樹の前を歩き出す。
孝樹もすぐ追いかけ、壮汰と並んで歩く。
校門を通りすぎ、家に向かいながら孝樹は思う。
やっぱりコイツとなら面白い生活が送れそうだ、と。
そう思いながら歩いていると、「ところで今日の晩ごはん何食うんだ?」と聞かれた。
孝樹は答えようとして全く考えていなかったのを思い出し、逆に「何食いたい?」と聞き返した。
壮汰は少し考えて、本格ボンゴレパスタと呟いた。
しかしそんな完璧イタリアンな料理が孝樹に作れるはずもない。当然拒否した。
「それじゃ普通の鍋で良いや」と若干なげやり気味で壮汰は言った。
鍋か、鍋ならあいつらも文句は言わんだろう、と考えて二人はスーパーに向かう。
スーパーに入ると、壮汰は一目散にどこかに向かっていった。
孝樹は順路に沿って野菜コーナーに向かった。
野菜コーナーではまだ特売の類いは行われていなかった。
それでもここのスーパーは他のスーパーに比べて安いのか、多くのお客が買い物をしている。
ママーお菓子買ってとかあら、これお得だわとか、買い物客のざわめきが店の中を活気良くしていた。
きっとこの店には赤字だとかそういうシビアな世界とは無縁だろう、と考えながら鍋に入れるネギやしいたけをカゴに次々と入れた。
他に何を入れようか考えていると壮汰が戻ってきた。
「孝樹ー肉だぞ肉ー、見ろみろ超旨そうじゃん」
そう言いながらやってきた壮汰は抱えきれるだけの牛肉や豚肉のパックを持ってきていた。
「壮汰、いくらなんでも持ってきすぎだろ。三パックあれば良いんじゃねーか?」
そうして壮汰の抱えているパックの内、三パックだけカゴに入れて、他のヤツは戻してくるように言った。
壮汰は少し残念そうな顔をして戻しに向かった。
孝樹は壮汰を見送り、また歩き出した。
豆腐や鍋の素、こんにゃくなどをカゴに入れつつレジに向かって進んでいく。
レジにつき、列に並んでいると壮汰が戻ってきた。
「お前どこまで肉戻しに行ってたんだよ」
「いやーすまんすまん。少し迷っちまったのだよ……アハハハハ…」
「アハハハハ…じゃねーだろうが。何高校二年にして迷子になってんだよ。しかもここのスーパーそんなに広くないぜ?」
「迷ってしまったものは仕方ないじゃん」
「仕方ないってお前……」
その時、レジの順番がきてしまって説教をしてる暇がなくなってしまった。
店を出てから二人は再び家に向かい歩き出した。
空は完全に暗くなり、星や月がまるで生きているかのように輝いていた。
二人の家がそれぞれある分かれ道に着いた。
「んじゃ後で泊まりに行くわ」と壮汰は全速力で無駄に手足をあげ、駆けていった。
内心、やっぱ変わってんなーなんて考えつつも、おうっと手を振った。
壮汰もいなくなり一人家に向かう。
暗い道に一定間隔である街路灯に時折照らされながら歩く。
しばらくの間、何も言わず、何も思わずほとんど無意識状態で家に着いた。
小さいながらもしっかりとした門を静かに開け、玄関の鍵を開けようとして、大切な事を思い出した。
―やべっ、優華にも紗美にも話さずに独断で決めちまったっ―
孝樹の顔からは徐々に血の気が失せていき、手とかからは冷や汗がどんどん出てきた。
心の中で、どうしよう、これホントピンチなんじゃね?きっと優華は間違いなく、紗美は恐らく、キレる。
あの二人からの同時攻撃にはまず耐えきれないだろう。かといってここで逃げても壮汰が来て、事情を話せば同じこと。更に壮汰を待って、連れて逃げても、見つかってアウト。
孝樹はより一層全身から血の気が失せるのを感じた。
そしてどの道アウトじゃん、と覚悟を決めた。
鍵を開けて玄関に入り、一言「ただいま」と言う。
すると、どこからともなくすごい勢いで近づく人の気配を感じた。
「おっかえりー、こーうちゃーん」
一種のダイレクトアタックのような飛び込みを紗美がした。
思いの外強かったのか、孝樹は受け止めきれず、思いっきり後頭部を玄関の取っ手にぶつけた。
孝樹は後頭部を撫でながら若干泣いてしまったせいで赤くなった目で紗美を見下ろし、
「痛いだろうが!!時と場所を考えろ。てか、そもそも飛びつくんじゃねーよ」と怒る。
「だって孝ちゃん遅いんだもん。いつもだいたい夕方くらいには帰ってきてたじゃん。何してたのよ」
全く悪びれずに紗美は言った。
そしてそれは孝樹が今最も悩んでいる事そのものだった。
孝樹はすごく迷った。
今ここでとりあえず紗美にだけ事情を話し、理解してもらうべきか。
それとも、この場は黙っておいて、後で二人一緒に教えるべきか。
ただ、どちらも当然リスクを伴う。
非常に高い「リスク」を。
孝樹は心の中で無事でありますように、と祈りながらも話すことに決めた。
紗美を落ち着かせ、これまでの事情を一分以内で完璧に伝える。
しかし、話を聞き終えた紗美は素のままの声で、別に良いんじゃないかな、と言った。
予想外の展開に困惑するものの、とりあえず自分の命が繋がったことに一安心する。
がしかし、紗美は孝樹が最も恐れている一言を言った。
―千摩さんは何て言うのかな?―と。
突然現実に戻され、更に喜び一転いっきに恐怖へと突き落とされる。
「そうだよな、でも決めちまった事だし、赤点は御免だからな。それにまんざらでもねーんじゃねーの」
逆に清々しい程の顔で玄関を後にする。
その後ろを紗美も追いかける。
リビングに入ると優華はテレビの前にあるソファーに座り、コメディ番組を大笑いしながら見ていた。
孝樹が入ってきたと分かったのか、テレビからは決して目を離さずに、
「帰ってきたんならさっさと晩ごはん作りなさいよ」などと言いやがる。
普段の彼ならここで一言二言文句を言うだろう。
しかし、今日の彼は少し違っていた。
その命令には素直に従う素振りを見せるが、真っ直ぐ優華の視界範囲内に入り、
「ちょっとお知らせしなくてはいけないことがございます」
そして、全ての事を話した。
もちろん、先刻説明して、理解してもらえた紗美の援助のもとである。
聞き終えて、優華は少しニヤニヤし始めた。
やはり壮汰に好意を抱いていたようだ。
「まっまままー良いんじゃない?それと、私も勉強教えてもらうわよ?今年も赤点ばっか取ってるとさすがにまずいし」
そう言いつつ、目だけは合わさないよう背けても顔は全力で嬉しそうだ。
「もうこの話は終わりで良いでしょ?早くご飯食べようよ孝ちゃん」
手伝う気はさらさら無いのだろう、紗美は優華の隣に座り、だだをこねる。
誰にも分からないくらいのため息をつき、台所へ行く。
少々急ぎながら作業に取りかかる。
なぜなら今日から四人分を作る必要があるから。
手を洗い、リズミカルに野菜を刻んでいく。
その間にも鍋を火にかけ、ご飯を炊く。
その時だった。
玄関のベルが鳴り、大きな声で、こーうきくーん、まーなびーましょー、と聞こえた。
恐らくご近所さんにもはっきり聞こえただろう。
孝樹は急いで進行中の作業を止めて玄関に行った。
扉を開くとそこには壮汰が立っていたのだが、その姿に孝樹は思わず息を呑む。
なぜなら壮汰の姿はこれからどこまで旅行をしに行くのだろうと思わせるほどにいっぱいの鞄を三つと中身を溢れさせた部活用鞄一つといった重装備状態だったからだ。
「一体お前何持ってきたんだよ」
「そんなもの決まっているではなかろうか。勉強用の道具と服、それに筋トレ用の重りに魔除けのお札だろ?他にはトランプに将棋にカバディセットを持ってきた」
さらっと言った。
(何なんじゃコイツアアアァァァァァ。天然なのか?わざとなのか?どちらにしても間違いなくバカダアアァァァァ)
何て心の声は一切顔に出したりはせず、苦笑いといえそうな顔をして
「まぁあがってくれ」
そう言って部屋へと促した。
「ではではお邪魔致しまする」とわけの分からない行動をして言った。
リビングへ向かう壮汰の背中を見ながら遠い目をして、何かうん、楽しくなりそうだな、と一人感傷に浸る。
そこへリビングから壮汰と入れ替わりに紗美がやってきた。
「ねぇーねぇー早くごーはーんー」
そう言い残して再びリビングへ戻っていった。
孝樹も戻ろうとして靴が散乱している事に気づき、ちゃんと揃える。
やはり几帳面である。
リビングに入ると三人がテレビを見て騒いでいた。
しかし、優華は気配で分かったのか、テレビからは少しも目を離さず、さっさとご飯作りなさい、と罵声が飛んだ。
孝樹は黙って台所へ移動、先ほどの続きに取りかかろうとする。
そこへ横から、私も何か手伝うよ、と紗美が声をかけてきた。
「ありがとな、んじゃ頼む」
「了解っ」
そう言って二人は黙々と料理をし始めた。
料理がもう出来上がるという時、ボソッと、あの二人どうしてると思う、と紗美が問う。
聞き取れるか取れないかくらいのその声をしっかり聞いた孝樹はその問いに対し、
「それなりに楽しくやってるんじゃないか?」
ちょっと無責任だったかな、と思いつつそう言った。
紗美はその言葉にあっそ、とだけ言い、仕上げに取りかかった。
一方その頃、リビングはというと、一種の攻防戦のような雰囲気を醸し出していた。
「アハハハハ、いやーこの芸人は実に面白いなー。千摩は好きな芸人いるのか?」
という質問に対し、こくりと頷く。
「ほう。その芸人の名前は何て言うんだ?」という質問には、紙にさらさらっと文字を書き、壮汰に見せる。
「ほほう。平旬仙人というのか。今度見てみよう」と言った。
つまりは、二人だけになってから壮汰から話しかけることは出来ても、優華から話しかけることが出来ないのだ。
壮汰はあれこれと優華に話しかけるが、優華の方は頷いたり、紙に書いたりと直接話すことができない。
そんなやり取りがしばらくの間続いた。
優華はほとんど下を向き、指をずっといじっている。
壮汰の前では優華は普段の強者ぶりを全く発揮できない。
二人は黙ってしまった。聞こえるのはテレビの音と台所から聞こえてくる話し声だけとなった。
どうしよう、何話したら良いのよっ。何も浮かばないわよっ。孝樹助けなさいよねっ、と優華は思う。
壮汰は………特に何も考えたりしていなかった。
その時だった。台所から孝樹と紗美が入ってきた。
「飯の準備が出来たぞ、さあ食おうぜ」
「美味しそうだよお?」
二人はリビングの静まりきったこの何とも言えない空気に気づいたのか気づかなかったのかそう言った。
優華は天の助けとばかりに、食べよう食べよう、と言った。
タイミング良くちょうど壮汰の腹も鳴ったので、四人は少しばかり遅い夕食を食べることにした。
ちなみに、本日の夕食は壮汰提案の鍋に、白いご飯、孝樹特製のドレッシングのかかったサラダであった。
優華・紗美・壮汰はイスに座り、孝樹は茶碗にご飯をついで、それぞれの前に置いていった。
そして孝樹が席に座ると、四人は声を揃えて、「いただきまーす」と言った。
それからはまるで宴会のように盛り上がった。
座っている席は優華がリビングと廊下に近い一角に座る。
これはすでに定位置化してしまった。
そのため、孝樹は優華の面倒をみるために、常に隣に座る。
こちらもほぼ定位置と言えよう。
紗美と壮汰は別に定位置とかは決まってない。
今回は孝樹の向かいに紗美が座り、優華の向かいに壮汰が座る、という形をとっている。
時間が経つにつれて、少しずつ騒がしくなっていく。
優華は壮汰の事が気になりすぎるのか、食べようと口に運んでいるものをその途中で落とし、服を汚している。
孝樹はその汚れを拭きとったりしている。
紗美は悪戦苦闘している孝樹に横からちょっかいをかけている。
壮汰は……楽しそうに笑っている……。
食事が終わり、今度は孝樹と壮汰で片づけをすることになった。
優華と紗美はとりあえずお風呂に入ってしまおう。そういう事で話が決った。
二人は台所から出ていき、残った孝樹と壮汰は皿洗いを始めた。
三分の一ほど洗った頃だろうか、お風呂場では何やらものすごい騒ぎが起きているのか、すごい声が聞こえてくる。
「あいつら一体何してんだよ、近所迷惑じゃねーかよ」
「ハッハッハッ、ここが近所迷惑?それほどじゃないであろう?」
「まー否定はしないけど…」
気づいた人もいるだろう。
実はこの雨河家は小さく見えるが実はかなり大きかった。
現存している千摩邸と比べても土地的にはさほど差はないのである。
ちなみに千摩邸の広さはごく一般的な高校と同じ程である。
ただ、雨河家の土地は広いのだが、孝樹の父親が『家は一般家庭程の広さで十分だ』と言ったことにより、土地の割には家が小さい。
それでも一般家庭よりは大きかったりするわけなのだが…。
「よし、これで終わりかなかなー」
「そうだな、んじゃあいつら出るまでどうする?」
「当然決まってる。腕相撲しようぜ」
「う、腕相撲かー。よし、良いだろう。いざ勝負だ」
こうして男二人は腕相撲を始めた。
同じ頃、着替えを取りに行った優華たちは廊下で合流、一緒に下に下りた。
「私先に入るからちょっと待ってて」
そう言い残してお風呂場に向かおうとする優華の肩をガシッと掴み、引き止める。
「良いじゃない。一緒に入ろうよ」と言う。
「ハァァァアアアアアア?」
優華は顔を真っ赤にして驚いた。
しかし、紗美は「良いじゃん、女同士なんだし」と優華の手を今度は優しく掴み、お風呂に向かった。
脱衣場に入ると紗美はサクッと服を脱いだ。
その姿を見た優華の第一心情は、恥ずかしいとか何コイツとかそんなものではなく、ただ純粋に“ま、ま、負けた”であった。
確かに負けているかもしれない。ただ、実際は、「うーん、うん、紗美だね」くらいなのだが、それでも、そんな些細なさでも、優華は敏感に感じ取り、その大いなるコンプレックスによって濃い敗北感に浸っている。
しかし、紗美はそんな感情を優華が抱いているとは全く気づかず、早く脱いじゃいなよ、と優華の服を脱がしにかかる。
「ちょっ!あんた何してんのよ、放しなさいよ。うわっ!何他人の服をっ、ちょっ、やめてって、ギャアアァァァァ」
当然抵抗はする。
するのだが、こう言う時何故か力が強くなる紗美には勝てず、服を脱がされてしまった。
「さっ入ろう、孝ちゃんが用意してくれたんだし」と再び優華の手を引いて浴室に入った。
この浴室は二、三人なら何の問題もなく入れてしまう。
「先に私が洗う」と優華が洗い始めた。
紗美はその後ろで何も言わずただ立っていた。
そして、優華は洗い終わり、紗美と代わって浴槽に浸かった。
とても気持ちの良くなる温度だった。
暑くもなく冷たくもなく、まさしく適温だった。
おもわず、はぁー、と幸福感で一杯のため息が漏れた。
すると、紗美はクスクスと笑いながら頭についたシャンプーを洗い流し、シャワーを止めて顔を手で拭い、額に手をあてそのまま上へ。
多少色っぽく髪を束にする。
「何なのよその笑いは。何なのよ、その行動はアアァァ」
半分泣き、半分キレ気味に言い募る。そしてジャンプ。そのまま紗美に絡みつき、体の自由を奪う。
「ちょっ、放してよ。危ないじゃない!放してって言って…キャッ!どこ触ってんのよ、放しなさいってちょっともう」
優華はちょこまかと動き回り、どんどん精神力と体力を紗美から奪い去っていく。
とうとう疲れ果ててしまい、何を思ったのか―まー苦しくて死に物狂いだったのかもしれない。―紗美は大きな声で、孝ちゃーん助けてー、と連呼し始めた。
「ちょ何してんのよ!呼んだら来ちゃうじゃないの。放すからストップストップゥゥゥ」
焦った優華はおもわず紗美の口を塞ぐ、がしかし、口と一緒に鼻まで塞いでしまう。
紗美は少しずつ呼吸が苦しくなっていく。
そして酸欠状態に。紗美は体の力が抜けてゆき、その場に崩れる。
その時だった。事が起きてしまったのは。
何と紗美に呼ばれた孝樹がやって来てしまったのだ。
「おーい、呼んだか?」
そう脱衣場から声がした瞬間、優華は飛び上がった。
当然だろう、目の前には脱力状態の紗美、一つ扉を挟んだすぐそこには孝樹、非常にまずい。
「おーい、大丈夫か?」
現状を全く知らない孝樹はなおも問いかける。
優華は悩んだ。悩みに悩みぬいた結果、
「なっなっ何でもないからあっちに行きなさい」と言った。
「命令かよっ!ったくわーたよ、行くよ」
孝樹は脱衣場を出て行った。
とりあえず、作戦成功である。
次の問題は目の前で動くことができなくなってしまった、(というか、動けなくした)紗美をどうするか。
しかし、優華はちゃんと考えていた。
まづ、紗美をお風呂から脱衣場に運ぶ。
その次に体を拭き、服を着せ、準備完了。
仕上げは大きな声で、「孝樹来て、コイツを運びなさい」と叫ぶだけだった。
そしてここまでは成功。
ただし、ここからが失敗だった。
その声に驚いた孝樹がやってきたのだが、脱衣場の扉を開けたかと思うとすぐに閉め、
「ごめん、わざとじゃないんだ、わざとじゃー」
そう言って引き返していった。
優華には何が起きたのか全く理解できなかった。
だがしかし、理解していた者が一人いた。紗美である。
彼女は痺れて動きにくいにもかかわらず、力を振り絞ってこう言った。
「あ…あ…あん…た、服…き…てな…い…」
そう言い残して紗美は力尽きた。
一人残った優華もその言葉でようやく事態を把握した。
紗美に服を着せることに集中し過ぎて、自分はタオルを巻いただけだったという事に。
さらにいつ起きてしまったのか、挟んだはずのタオルの端が外れていて、自分を申し訳程度にしか巻いていなかったのだ。
おもわず叫びそうになるが、グッとこらえる。
自分の服をさっと着て、全速力でその場から逃走。リビングを通り過ぎ、孝樹の部屋に逃げ込む。
その際、リビングを通り過ぎる時、二人に紗美の事を一瞬で伝えたのは優華が真面目だからだろう。
「一体何があったんだ?千摩は」
壮汰はすごく不思議に思っていた。
もちろん孝樹に聞くのだが、答えられるわけもない。
結局その夜、優華はおりてこなかった。
したがって、孝樹・壮汰・紗美の三人で勉強会を開くことになった。
二時間ほど、壮汰に詳しく聞きながら、三人は真面目に勉強をした。
不意に時計を見ると十二時をさしていた。
「うわっ、もう十二時じゃん」
孝樹が唸った。
「そろそろ寝よう。明日も学校あるんだし」紗美はそう言うとそそくさと勉強用具を片づけ始めた。
「同感だな、寝るか。んじゃ本日はかいさーん」壮汰も片づけ始める。
もちろん、孝樹も片づける。
そこで孝樹は大変なことを思い出す。―壮汰をどこで寝かそう―。
「そういや、俺どこで寝るの?」
ナイスなタイミングというか何というか、とりあえず考えていたことをそのまま孝樹は聞かれる。
「そうだなー、ちょっと待て……」
孝樹は考えた。個人的にはどこでも良いんじゃないか、とは思うが、やはり男女の同室は恐らくまずいだろう。(あれ?でも俺って女子と一緒の部屋じゃね?てか、二人とも時々一緒に寝てね?あれ?俺ってなんなの?)
その時、我にかえった。
違うそこじゃねーよ!うーん、どうしようか。いっそのこと壮汰を優華のところへなんてどうだろう。
悩む。すると横に紗美が来た。
口を耳元に近づけると、
「千摩さんと吉原くんを一緒にって考えてるのかもしれないけど、それはやめた方が良いよ?」と言った。
「えっ?何で?良くないか?」
「ダメだよ。孝ちゃんは千摩さんと一緒に寝なさい。吉原くんは私が請け負うから」
そう言い残して紗美は壮汰に軽く事情を話したのか、壮汰は頷き、オ・ヤ・ス・ミィーと言って紗美に連れられて行った。
残った孝樹は明日の弁当や朝食の準備だけある程度して、自分の部屋(ほとんど優華に占領されつつある)に戻った。
部屋に入ると、孝樹の布団で優華が寝息をたてていた。
正直どうしようと考える孝樹であったが、相手は眠っている訳で、起こさぬようにそっと布団の中に入った。
「さっきはよくも見てくれたわね」
孝樹は飛び上がった。どうやら優華はずっと起きていたようだ。
「いや、あれは不可抗力っていうか、お前が呼んだからであって…」
すると、優華はこちらを向いて何故かクスクスと笑い出すのであった。
孝樹は驚いた。
優華なら間違いなく殴るか蹴るかすると思ったのだ。
「何笑ってんだよ、笑うとこじゃねーだろ」
「ごめんごめん。何かテンパってるなーと思って。さっきの事は私も悪いからもう良い」
そして再び反対側を向いてしまった。
しかし、怒っているわけではないようだ。
声もいたって穏やかだし。
「孝樹、おやすみ」
そう言い、優華は夢へと落ちたようだ。
孝樹は再び驚いた。
今までに優華から“おやすみ”などと言われただろうか。
おもわず孝樹は優華の顔を覗き込む。
するとそこには人形のように白く、美しい“笑顔”の優華がいた。